道しるべ・トップ/あらすじ |
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■ 都会での準備篇 |
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Chapter0. としのはじめの家族会議 |
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Chapter1. プロローグ |
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Chapter2. 2008年のできごと |
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Chapter3. 2009年のできごと |
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Appendix1.笹村あいらんど視察 |
Appendix2.たんぽぽ堂視察の記 |
Appendix3.すれ違いは埋まるのか |
Appendix4.田舎の土地の探し方 |
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Chapter4. 2010年のできごと |
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ふるさと回帰にあって、Uターン組と、そうではない、いわゆるI・Jターン組とでは、定住場所を決定するまでのプロセスや負荷が大きく異なる。
勝手知るか、否かというのは、実に大きい。
Uターン者であっても、生まれ育った実家にそのまま戻るよりは、その土地の一画や近所に移り住むケースが多いようだ。それでも、勝手知る土地であれば、勘どころが効く。幼馴染などから活きた情報も入ってくることだろう。
I・Jターン組は、そうはいかない。手探り状態で始めることになる。
ただ、日本中の好きなところから、理想とする定住地を選べるのである。これほど贅沢なこともあるまい。定住後、しばらく経って、夫婦でその歩みを振り返ることがあれば、右往左往したこの時期がいちばん面白かったと思えるのではないだろうか。そんな気がする。
2年間の定住準備において、最初の1年で、県内のどういうエリアに移住するかをフォーカスしてきた。結果、「三種町を中心にした“どこか”にしよう」と決めた。それから10ヶ月ほどをかけて、棲む土地を探し、交渉し、譲渡いただくまでに至った。
全体として、きわめてスムースにことを運ぶことができたと言える。幸運だった。
I・Jターン組にとって、土地が決まらないうちは、移住ということが絵空事のようにも思える。どうにもふわふわ落ち着かない。これでようやく、来年の春にはスタートラインに立つのだ、という実感が湧いてきた。
田舎には不動産業がない。土地価格の相場もあるようでいて、実はよく分からない。土地々々への地権者の「思い」もさまざまだから、要はビジネスライクにことが進まない。境界線の問題や近隣住民の理解なども重要となってくる。・・・・・
都市部で住宅や土地を探すのとは、まったく異なるプロセスを経ることになる。そして、それをひとまかせにするのではなく、自らがことにあたって進めていくよう求められるのである。
田舎社会は、人と人との濃いつながりで成立している。内部に居るもの同士は、阿吽の呼吸であっても、外から入りこもうとする者にはすべてが霞んで映る。
それでも所詮、人は人である。わたしたちが棲みつこうとする土地を、わたしたち自身が交渉するのであるから、わたしたち「らしく」交渉に臨めばよい。となると、下手な役者の芸のようなかけひきは好きではない。巧くもない。「包み隠さないで誠意を示す」こと、そして「信頼する」こと、のふたつを軸とした。それで駄目ならしようがない、そこには縁がなかったと考え、また別の土地を探すだけのことである。
しかし、ビジネスの世界同様、誠意と信頼だけで物事は動かないことも事実である。
現地のNPOや設計事務所、あるいは知人の不動産屋や司法書士のみなさんから、いろいろな情報やアドバイスをいただいた。現地の法務局にも足を運んだ。
そして、価格を含めたもろもろの条件のスレッシュホールドを定めて、交渉が泥沼化しないように心掛けた。
以下に、在郷での土地取得の顛末をとりまとめてみたい。
ここでは終の棲家探しの出来事を包括したいので、「道しるべ」の3−4.土地を探す_1(訪秋第4回目)、3−5.土地を探す_2(訪秋第5回目)、及び3-11.土地の交渉の内容とダブることを了承いただきたい。
いくつかの紆余曲折もご披露する。見知らぬ田舎で土地探しを始めようとお考えのみなさんの参考に、すこしでもなるのなら幸いである。
長い文章になってしまう。おりおりにポイントを整理しながら進めたい。
土地を探し、交渉していくプロセスは、いくかの手順が整然とシリアルに動くわけではない。パラレルに連動し、交差している。そこを敢えて、整理すると、わたしたちの土地決めは、以下のように流れた。
1) 役場やNPOの案内でいろいろ見てまわる。お互いの事情を理解していく。
2) 気に入った土地をみつける。
3) 現地で情報を探る。(土地の登記情報や相場価格等)
4) プロに相談する。
5) 地権者の方と会う、交渉する。
6) 条件を提示しながら、交渉を重ねる。
7) 売買契約、登記手続
8) 近隣への挨拶、境界線の確認
9) 荒地の開墾、廃屋内の整理等
三種町には、ふるさと回帰に関して一元的な窓口となっていただく役場の担当やNPOがある。これはたいへん心強い。
定住準備の活動当初から、現地にうかがうたびに、町の紹介ともども、空家や空地等の物件をいろいろご案内いただいた。
わたしたちには、本当に自分たちがやりたいことは何なのかを、そういう活動を進めながら、少しずつ固めていったところがある。構想固めからおつきあいいただいたのである。あの夫婦はちょくちょくやって来るが、いったいなにを考えているのか、さっぱり分からない、ということだったろう。
ただ、わたしたちにとっては、何十箇所、連れて行ってもらっても、ピンと来ないものはやはり来ない。理屈ではなく、インスピレーションの問題であるのかも知れない。そうじゃなくて、こんなイメージなんですよ、と都度々々、わがままを言わせていただいた。
なにも収穫がなくて、一旦、横浜に帰る。
また出かける。さらにいろいろ案内していただく。それでもピンと来なくて、また横浜に戻る。
しかし、そうこう繰り返しているうちに、なんとなくではあるが、お互いの事情や思惑が、ほんわかと分かるようになってきたのである。
わたしには、戦前の古民家を買い取り、店舗兼住宅にリノベーションして棲めないものか、という夢があった。ところが、そもそもそういう古民家が保存されていることが、もはや稀有である。
どうしてもこだわるのならば、県内を広く探し求める必要がある。かつて豪農や庄屋があったような、伝統的な町並みにはいつくか残っている。秋田で言うと、山間部の羽後や美郷、湯沢あたりが有力になる。
古民家がみつかったとしても、その土地まで気に入るとは限らない。移築するには、とんでもなく資金がかかる。
そもそも、そこを売ってくれるのかという問題もある。
つまり、そういう物件は、余程、強運でないとみつからない。そういうことが分かった。
古民家へのこだわりは捨てて、まずは土地を探そう。そこの中古物件がたまたま再生できればそうするし、無理であれば新築すればよい。
こうして、現実にそぐう、優先順位ができてきたのである。
また、先方でも、わたしたちがどういうところにこだわるのか、ということを徐々に理解いただけるようになってきた。利便が良くとも国道沿いのようなところは嫌らしい。町のなかに店舗を借りて、少し離れた場所で住宅を構えることも駄目らしい。だだっぴろい広野や田んぼの視界の開けたところも気にいらないらしい。そういう機微が伝わるようになってきた。
あれは、第4回目にあたる訪問で、明朝には三種町を離れるという日だから、09年2月12日のこと。
四季おりおりに訪問し、その都度あちらこちらに連れて行っていただいたので、町の地形もかなり頭に入っていた。役場に登録されている空き家や空地は、くまなく見て廻っており、わたしの方が案内人になれるほどだった。それでも、さしたる成果もなく、「まぁ、もう一年あるのでじっくりやりましょう」というような話しをしていた矢先のことだった。
NPOの清水理事長が、ふと思いついたように、あそこだったらお気に召すと思うよ、とおっしゃる。うん、あそこはきっといいと思う、と自信に満ちた呟きが聞こえた。
さっそく、連れていっていただいた。そして、それが、終の棲家となる土地との邂逅になるのである。
ここらへんは戦後の開墾地でね、と理事長が説明する。なるほど、男鹿街道からこの集落への入り口には「大口開墾前」という文字のかすれたバス停がある。
小高い砂山の脇の農道を入っていくと、その山の懐に抱えられたように七軒の集落がひっそりと冬陽に浮かんでいる。七軒と云ったが、実際に人が住んでいるのは、既に四軒でしかない。二軒は廃屋になっており、残る一軒はながらく放棄され、荒れるにまかされて、家屋の痕跡すらない。
そういう観察眼を持って視ない限り、うらぶれた集落として通り過ぎてしまうようなところかも知れない。が、まっさきに惹かれたのが妻であった。ひとめ見て、ここなら棲んでもいい、と断じた。
それまで、案内を受けた空家や空地は、役場に登録されているものだった。役場の呼びかけに応じ、この家や土地なら、手放したり、貸したりしても良いと、住民が自発的に登録する制度がある。いくら役場やNPOと言えど、持ち主の承諾のない土地や空家を紹介して廻るわけにはいかない。
これは多分にひねくれた見方になる。だが、やんごとなき事情のない限り、手放しても良い土地や家は、やはり手放したくはないものとは違う、ということが言えるのでないか。住む、だけならば、いくらでもある。しかし、終の棲家としてこだわりをもつと、やはりなかなかみつからないものである。
空家の登録制度を進めている自治体は、年々増加しているようだが、登録率が上がらないなど、課題も多々あると聴く。持ち主からすると、売らないとは言わないが、どこの馬の骨かわからない者に開放するのは抵抗がある、という気持ちが働いて自然である。
だから、登録情報のなかに気に入った物件がなかったとしても、諦めることはないと云いたい。時間をかける。足を使う。そして、情報網を張り巡らせる。そうすれば、かならず縁のあるところはみつかる。
登録されている何百倍もの空家や空地が、実はあちらこちらに散らばっているのである。
たまたま幸運にも、また、さんざんわがままを主張して、理事長に「わたしたち好みを教育(失礼しました!)」させていただいた。そのかいあって、邂逅があった、ということなのだと思っている。
戦後、開墾され、いままた時代に取り残されていくかのようなこの集落を遠めで眺める。なるほど、先人は良い場所に家を建てたものだとつくづく感心する。
北側に山を背負い、東南は広く開けている。山はかつて植林された松で覆われ、冬の北風を防風している。町がいち早く手を打ったおかげで、マツクイムシの被害はここでは殆ど出ていないそうである。
七軒の土地が、それぞれ4−500坪ずつ、きれいに区画されているところが、開墾地らしい。
わたしたちが目をとめたのは、二軒目と三軒目の区画であった。(以下、それぞれ169区画・170区画と呼ぶ)それぞれ誰も住んでいない。
169区画は、相当、長い年月にわたって放置されているようで、いまや原野化している。
170区画は、そこまでではないが、荒地になっていることにかわりなく、奥に廃屋がひっそりとたたずんでいる。勝手に宅地内にお邪魔すると、栗や柿、梅の果樹が、茫々に繁る下草のなか、主なき家屋を見守るように佇立している。廃屋に、表札がかかっていた。Isさんのお宅であったことがうかがえる。理事長によると、この町一番で102歳まで長生きされ、10年ほど前に亡くなられた方らしい。以来、廃墟になったということなのだろう。
その後、理事長は近所を一軒ずつ廻り、169区画と170区画が、現在どなたに相続されているか聞き取ってくれた。地権者への最初の一報は、わたしよりは地元の理事長に仲介いただいた方が、信頼上、好ましい。その渡りをつけてくださるよう約束していただいた。
こうして、土地探しについて、ようやくひとつの感触を得た状態で、横浜に帰ったのである。
本当のところ、わたしたちは、もう少し候補地があって欲しかった。NPO等からの口コミで、こういうところがあるとか、こんな場所ではどうかといった情報が、たくさん出てくることを期待していた。横浜に戻ってからの数ヶ月の間で、そういう選択肢が増え、その上で、169・170区画を含め、それぞれの地権者の方と交渉を進めたいと考えていた。有効なカードを一枚でも多く持っていた側に交渉は優位に働く。常套手段である。
田舎での土地の取得には時間がかかる。数ヶ月はおろか、場合によっては数年をかけて交渉しなければならないと聴く。169・170区画が順調に進む保証はまったくない。ここに絞ってしまうと、数ヶ月もかけた交渉の末に不調に終わったとき、また次の候補を探すようなでは心細い。
ところが、結論から言うとひとつもあがってこなかった。
どうも、わたしにはお人好しのところがある。なんでもやってあげる、なんにも心配しないでこの町においで、といった役場やNPOの言葉を素で真に受けてしまう。先方も、リップサービスではなく、心底、本気で言ってくれている。しかし、現実には、田舎と都市で遠く離れ、微妙な機微まで意思が疎通することはあり得ない。
田舎暮らしを考えている方には、「他力本願ではなく、自分で切り拓いていくだけの覚悟があるなら、是非おやりなさい。手助けがないと、一歩も動けないようなら、残念だが諦めた方が良い」とアドバイスしたい。
田舎暮らしに秘訣などなにもない。他力本願でなく、金で解決しようせず、自分でやれることは自分自身でやること、それだけなのではないかと想う。
欲しいものを店でみつけたら、その場で衝動買いするのは辞めて、一旦、家に帰って2−3日置きなさい、それでも欲しいと思うものなら、それは本物なので買いなさい、としつけられた。
169・170区画について思い浮かべると、きちんと交渉につきたいという気持ちが湧いてくる。本物と考えて良かろう。
しかし、残念ながら、この地権者への最初の渡りもその後、一向につかない状態が続く。わたしたちは、横浜にいて、なにひとつ動かない事態を見守るしかなかった。
その顛末は、先の「Appendix3.すれ違いは埋まるのか」に触れているので、割愛するが、結局、役場やNPOがどれだけ善意を持って対応してくれたとしても、それはわたしたち定住候補者の現地エージェントにはなり得ない、ということなのだと思う。側面の援助は惜しみなくいただける。しかし、引っ張り揚げたり、後ろから押したりするものではない。ものごとを前に動かしていくのは、移住する本人その者でしかない。肝に命じるべきだろう。
メールや電話で、意思疎通が図れ、都市部に居ながらにして、いろいろ情報が集まり、場合によっては現地側をリモートでコントロールすることができれば理想である。そういう時代がいつか来るかも知れないが、現状は、まず無理と思った方が良い。
なにかあったら、行って顔を合わせるべし。そうしないと、なにひとつ動かない。良いとか、悪いとか、ではない。それが実態である。
誤解していただきたくないのは、これはそういう役場やNPOを批判するものではない。
わたしたちの場合、もし三種町の役場やNPO一里塚という存在がなければ、定住準備がここまで順調に進んでいたと、とても思えない。きちんと側面で支援いただいている。ただ、前進していく原動力は、あくまでも定住する本人にあらねばならないのである。
このように動かぬものを動かすために、再度、秋田を訪問することにした。気に入った土地をみつけて、4ヶ月経った6月のことだった。
そして、この訪問によって、169・170区画双方の地権者への橋渡しも行われ、具体的な交渉の糸口をつかむまでに至った。169区画は横浜の、170区画は東京のご子息にそれぞれ相続されていることが分かった。
ただ、169・170区画以外まで候補対象を広げて、カードの枚数を増やすことは、この時点で諦めた。ない情報をいまさら漁り始めるよりは、とりあえず見えているものに全力を尽くす方が、ベターだろうと判断した。
それに169と170というふたつの区画がある。どちらか片方だけでも決まってくれれば、移住の最低条件は満たせられる。その点、ふたつの区画が“隣り合わせて空いていた”ことは幸運だった。And/Or条件のいずれも可であるからだ。
また、秋田訪問中、法務局などで掌握できる情報を掴んでおくという作業を行った。
その手順や調査ポイントについては、設計事務所の櫻庭さんからアドバイスいただいた。住宅地の取得等にあたっては、こういうプロの下見をお願いし、適切なサジェスチョンを得ることが有効である。有償であっても、必要なものは必要、と考えている。
物として、かたちにならないものへの金はもったいない、という意見もあるが、わたし自身、IT通信システムのコンサルティングを生業としている。こういうノウハウやコンサルの価値を認めたい、高めたいと考えているひとりである。コンサルをからめたときと、そうでないときの出来高(性能や品質)に雲泥の差を出すのがコンサルタントの腕である。
役場も、NPOも、地権者も、わたしも、すべてがこの道の素人になる。押さえておくべきポイントを知らずして進めると、後に禍根を残すことにつながる。
ただし、わたしとこのコンサルのあいだには、絶対的な信頼感が必要となってくる。価値観や感性、あるいは年代を含めて、相性の合うパートナーをいかにみつけるかが大事だと思う。櫻庭さんとの出会いは“3−4−3.サクラバ設計と高橋林業”で記述のとおりである。店舗兼住宅の設計者としておつきあいを始めた。それがわたしたちの集大成であることを理解くださり、土地探しのフェーズからいろいろアドバイスをいただいている。地域情報などの周辺情報も折にふれてインプットしてくれるので助かっている。櫻庭さんは、このウェブサイトも繁くご覧いただている。活動の背景にあるものを、きちんと掌握いただいているのだから、打合せの時間も短く、アドバイスも適確である。田舎とのコミュニケーションには往々にフラストレーションが伴う。こういう方がひとりでも居ると非常に心強い。
もちろん、彼もボランティアでやっているわけではない。緩やかに正当な対価が発生する。わたしたちにとってみると、ボランティアのNPOと、客観視できるプロの両方を「利用」させていただいていることになる。このバランスの機微には難しいところもあるが、いまのところは実に良く機能していると、わたしは考えている。
このときに櫻庭さんからのアドバイスをもとに調査した事項、そしてそこから浮かび上がった事柄は、次のとおりである。
■調査事項
@ 役場での調査
a. 候補地の正式な地番・地名の確認
b. Isさんの170区画(宅地)以外の山林・農地情報
c. 169・170区画が、条例によって、「急傾斜地」に指定されていないかの確認
d. 169・170区画の上下水道の確認
A 能代法務局での調査
上記地番・地名情報のa.公図、b.登記事項要約書 の調査(500円/筆)
・169・170区画の登記事項要約書:権利部所有権の住所・氏名、所有が複数に渡っていないことをチェック。
・Isさんの所有山林の登記事項要約書:住所や面積などをチェック
・分筆した側溝部、Isさん畑の登記事項要約書:分筆先が個人でなく、町であることを念のためチェック。また、分筆時期から見て「地積測量図」があり、境界が明確になることを確認。畑が全面積合わせても50e以下であることを確認。また、抵当権が設定されていることを発見。
・169・170区画の公図
■調査の結果、判明したこと
1)170区画の農地の問題
@-bを調べたのは、Isさんの意向が、170区画の宅地を譲るには、合わせて相続している農地や山林とセットで譲渡することが条件であったため、である。
わたしたちには、170区画の宅地で十分であるので、正直なところ不要である。ただ、宅地だけ引き取って、農地や山林が負の遺産として残るのでは・・・というIsさんの気持ちも分からないではない。まずは、それがどこにあるのか、広さはどうなのか、ということを調べてみたのである。
農地については、農地法の壁がある。農地を取得するには、農を「業」として営む計画書を農業委員会に提示し、その許可を得て、かつ50e以上の広さの農地を取得しなければならない。
※本農地法は、09年12月で緩和の方向で改正予定である。
調べてみると、Isさんの農地は十分な広さではないし、わたしに営農の意思もない。つまり、交渉では農地法を「盾」にお断りすることができる。
農地は駄目、山林ならば交渉可能という判断カードを持つことができたのである。
また、この農地はかなり古い時代に、抵当権に入っていることも分かった。土地の譲渡を考える場合、たいへん重要なチェック項目である。
2)相続人の確認
169・170区画の法的な相続人の確認が、法務局での登記簿謄本によってとれた。相続が複数名にわたっていないことも確認できた。土地の譲渡交渉にあたって、相続が複数のご子息などに渡っている場合は、ひとりのこらず全員の承諾を得る必要があるため、大事なチェック項目である。
3)急傾斜地の指定
背後に砂山を抱えているので、それが急傾斜地に指定されていないか、確認の必要があった。指定されていれば、建築物は傾斜の分岐点から大きく離して施工しなければならない。現在の建物は傾斜際にあるが、それは条例施工以前に建てられたものなのかも知れない。これから建てる家屋の条件を、きちんと探るため、役場の建築課に確認した。
結果は「指定外」であった。
4)上下水道の整備状況
これも同様に建築課に確認。上水設備あり、下水なし。つまり、合併浄化槽を設置する必要がある、ということが判明した。同時に、三種町では、本浄化槽購入・設置に関する補助金交付の制度があることも分かった。
また、地元での聞き取りで、土地の相場額(坪単価)も聞いてみた。
該当の集落に大工のSwさんが住んでおられる。お隣さんになる方である。この方から、活きた情報を得られた。
わたしたちは、土地に固執するものではなく、借地でも良いと考えていた。ただ、相続の代が変り、やはり返して欲しいというような弊害の事例も聞いていた。お互い、それは煩わしいので、手の届く相場感であれば、所有権の移転を前提として交渉した方が良い。
Swさんからうかがった坪単価をベースとできるのであれば、わたしたちの財力でも売買を前提として交渉できる。その感触を得た。
いよいよ169・170区画の地権者と土地譲渡に関する交渉に入ることになった。その条件、とくに価格について、どのように折り合いをつけていくべきか、わたしたちにはなにぶんこの方面の知識がまったくない。
そこで櫻庭さんや知り合いの不動産業であるObさんに、いわゆる「土地購入に関わるイロハ」をご教授いただいた。
地価は、日本の役所が出したものでも「一物四価」と言われるほど、複雑なものらしい。
@ 公示価格(公示地価)、A基準値価格(基準地価)、B路線価、C固定資産評価額がそれである。しかも、この4つの価格には相当の差がある。さらには、実際に取引される価格、即ち実勢価格が、またあるのだと言う。「一物五価」である。
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@:国土交通省が判定する毎年1月1日時点の土地価格
A:都道府県が決定する毎年7月1日時点の土地価格
B:国税庁が算定基礎とする毎年1月1日時点の土地価格
C:市町村が決定する3年毎の7月1日時点の土地価格
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この中では、路線価(B)が土地価格の四番バッターと言われるらしい。この路線価(B)の20−30%増しが、通常の実勢価格となっているようだ。
それでは、路線価(B)をどうやって調べてばよいか、はたと分からない。
・ 路線価(B)は、公示地価(@)の70−80%である。
・ 固定資産評価額(C)は、公示地価(@)の70%程度である。
・ この集落では、路線価(B)は、固定資産評価額(C)の1.1倍(宅地)、2.4倍(原野)、4.6倍(畑)である。
というからくりがある。
つまり、公示地価(@)か、固定資産評価額(C)を掴めば路線価を算定できる。
ところが、公示地価(@)は、全国の都市計画区域の3万点をプロットしたサンプルデータである。この集落のような在郷はその対象になっていない。また、固定資産評価額は、第三者の開示されるものでない。
結局、良くわからない、のである。
そこで、隣地のSwさんからの聞き取り額を基準にすることにした。Swさんは、そこに住んで、固定資産税も支払われている。帳票を見せていただいたわけではないが、拠りどころとして信頼するに足ると思った。
次に、交渉の戦略を練った。
わたしたちの求めようとしている土地は、「買い手のつく」土地ではない。一般的に、実勢価格は、路線価(B)に20−30%を上乗せするらしいが、それは購入需要のある場合のことであろう。少なくとも初期交渉時にその必要はないと考えた。路線価=実勢価格として交渉すればよい。
現地は、人が住まなくなって、十年以上の年月となっている。相当に荒れている。通常は、売主側の負担できれいに整地化する。ところが、現実問題として、それは望めないと考えた。相続者は首都圏におられる。したがって、荒廃した土地を整理するリスクは、買主となるわたしたちで負う方が現実的である。それはまた、価格を上乗せしない、という理由にもなる。
売れない土地だから、と言って、評価を無用に下げて交渉することもしたくなかった。相場の価格で取引きする、というのが、わたしたちのスタンスである。しかし、先方がどんどん価格の吊り上げをねらってくるようであれば、きっぱり諦めるつもりだった。そうなら、所詮ご縁のなかった土地なのだ。
まずは、わたしたちの考えをきちんとお伝えすることである。ご先祖が開墾し、いまは荒れてしまった土地を再興したいのだ、という誠意を示すことが大事だと思った。結果を焦らずに、なんどか足を運んで、粘り強く交渉してみること、それがわたしたちにできる最善の道であった。
不動産業のObさんは、必要があれば仲介しますよ、とおっしゃって下さった。
売買・登記時の手続きには、専門の知識が必要になる。司法書士の方も紹介してもらった。
仲介手数料は、法令で定められており、取引額に応じた3〜5%を売主・買主双方が支払う。司法書士への報酬額は、いまは自由化になっているが、所有権移転もろもろで4万円程度、+免許税・印紙税など。
その後の実際の交渉は、相手のあること故、わたしたちの思惑とは違った顛末を遂げることになる。ただ、事前にこういう準備を行ったことは、ときどきの判断を下す上でおおいに役立ったのである。
その後の169・170区画の交渉プロセス・顛末については、道しるべ本文「3-11.土地の交渉」にて記述するとおりなので、割愛する。ここでは、専門的な知識も必要となる譲渡交渉を、どのようなフォーメーションで進めたか、について、述べたい。
現代社会では、利害関係が衝突し合うような交渉ごとには、リスクヘッジのため、仲介者を立てて行うことが一般的である。わたしも、当初はそのようにして餅は餅屋の領域でお任せした方が、スムースに進むのではないかと考えていた。
しかし、いざ交渉を始めてみて、考えがかわった。それぞれの地権者とお逢いしてみると、やはり自分たちの住む土地のことについては、最後までわたしたち自身がきちんと対座して話しを進めていかないと、まずい気がしたのである。
それも不動産であればこそ、と思う。
自分のルーツとなる土地には、いくら故郷を離れて久しく、たとえその土地がいまは荒れ果ててしまっていても「心」や「思い」が残っている。
はい、あそこはいま空いていますね、これからも利用の予定はありませんね、それでは買いますから売ってください、とはいかない。資産価値の低い在郷のふるさとの土地であればこそ、なおさらである。金の問題だけはないのだから、ビジネスライクに進まない。地べたへの「思い」が希薄で、「資産」の対象の色合いが濃い都市部との明白な違いである。
不動産会社を通じて、都市部の一戸建てやマンションを購入するのと、同じ感覚で進めていたら、どうなっていただろう。
不動産と動産というものの、性格や本質の違いを、ついぞ分からずじまいであったと思う。お金が右から左に動いていくだけである。
それ以前に、地権者のItさん、Isさんを動かすことができなかったかも知れない。お金の問題ではなく、心の問題も大きかったからである。
土地所有にあたっては、金銭や物が右から左に移ったのではない。故郷への心や思いをちょうだいしたのだと思う。
なお、仲介としての不動産ははさまなかったが、登記の手続きは司法書士事務所にお願いした。自宅そばの法務局を訪ね、手間さえ厭わなければ、じゅうぶん自分でできるものだと思えた。ただ、所有権を移転するという他者間での取引のこと故、なにか法的な手違いでいざこざが起きるリスクは廃絶すべきと考えた。2区間分の手数料がかかったが、必要な経費だったと思えている。
移住に関わる費用については、今後も「移住のねだん」コーナーで可能な限り開示していくつもりでいる。だが、169・170区画の土地の譲渡費用そのものが、いくらであったかは秘匿すべきであると思う。地権者の名誉、と云うか、踏み込んではならない領域に土足であがりこむような気がする。
169・170区画で譲渡価格の差があったことは事実である。
廃屋の有無や荒れ地の状態など、異なる点はいくつかあるが、もっとも大きな要素は、地権者の納得感がどこにあるか、ということだ。
前述のとおり、路線価=実勢価格として交渉を進めた。年々、地価は下がっているのだから、これは妥当な取り引きと思える。
だが、現状引渡しとしたため、荒地を拓き、廃棄物を処理し、廃屋を解体して宅地、あるいは畑として整地するまでには、相応の価格がわたしにかかってくる。正直、わたしは169区画は妥当、170区画は割高である、と評価している。
一方、Itさんはともかく、Isさんにも、かなり安く譲渡してあげた、という感想があるのではなかろうか、と想っている。
これが、人間の心理である。
この線引きがたいへん大事なのではないか、と思う。
トータルで考えると、すこし割高なのかも知れないが、わたしたちは、わたしたちが納得いく線で譲渡していただくことができた。
先方は、すこし割安と思っているかも知れないが、やはり納得の線で売り渡した。
それがいいのだ。双方が納得する線引きこそ、肝要である。
Itさんと、Isさんでは、その納得の線のありかがやや違った。それは、古里の土地や家に対する思い入れの違いであり、あるいは生活ぶりの違いであり、ときに性格の違いである。だから、価格差が生じた、それだけである。それが不動産、ということなのだろう。
整地までの費用を考えると、相場より費用がかさむ、という読みは最初からあった。そして、それを承知で、最初からその価格を提示し、一貫した。
それをどう判断するか、は先方の問題である。
もし、その価格以上のものを期待されるならば、解体や整地化までを売主側の責任でやってくれるよう、条件をかえて交渉するつもりであった。それで埒があかなければ、決裂するだけである。つまり、一銭たりとも譲歩する気はなかった。
ビジネスの世界で、最初の見積りは概算ベースで甘く出す。相手の出方をうかがいながら、あるいは競争相手の情報を探りながら、徐々にターゲットプライスに落とし込んでいく。今回は、そういうことをせずに、いきなりファイナルアンサーを提示したようなものだ。
そして、それはそれで良かったのだとわたしは思っている。
この件について、わたしが企業人としてふるまう必要はまったくない。私人として、わたしたちの集大成となる場を求める行為であった。それには、やはり直球勝負が似合っているのだ。