道しるべ・トップ/あらすじ |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
■ 都会での準備篇 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter0. としのはじめの家族会議 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter1. プロローグ |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter2. 2008年のできごと |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter3. 2009年のできごと |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Appendix1.笹村あいらんど視察 |
Appendix2.たんぽぽ堂視察の記 |
Appendix3.すれ違いは埋まるのか |
Appendix4.田舎の土地の探し方 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter4. 2010年のできごと |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
“この週末、関東以西は低気圧に覆われ、終日雨模様でしょう”
当たって欲しくないときに限って、天気予報は適中する。早朝の中央高速は、おりからの雨でけぶっていた。
トリに続いて、ヤギもか、と呟く。先日、小田原の養鶏場を見学した日もこういう空だった。晴れ男のはずだったのになぁ、・・・と苦笑する。もっともお天気に、自分たちの運を使い果たしたくない。そぼふる雨の小旅行も悪くはなかろうと気分を切り換えた。
長野県青木村でファーマーズロッジ『たんぽぽ堂』を経営するのは吉田良一・敦子さんご夫妻。
良一さんは、大手の食品飲料会社を60歳定年まで勤め上げ、11年前に退職された。
その10年ほど前から、退職後は夫婦で田舎に暮らし、農的な生活をしてみようという構想を持っていた。たんぽぽ堂の物語は、そのときから始まっていた、ということなのだろう。
老後になって娘たちにすがることはしまいという決心があったし、勤め人を終えてから、外との接触をなくし、閉じこもってしまうこともしたくなかったと云う。
当初は、二地域居住を考えた。都市部での生活基盤を残したままで、田舎の週末・期間暮らしを行うことができれば、両方の良さを満喫できる。ところが、なかなかこれといった場所がみつからない。週末を利用しては、八ヶ岳、安曇野、伊豆や福島など、方々を探し歩いたそうだ。
長野は、移住先としてもっとも人気の高いエリアである。たとえば、山並みを見渡す風光明媚な場所があった。なんて素敵なところだろうと思った。しかし、何日か滞在してみると、そこは山陰で日没時間が早く、夜が長い。朝から昼、そして夕、夜ごとにその場に滞在し、あるいは春夏秋冬の四季おりおりに訪問する中で、じっくりと、本当に自分たちの条件に適う土地を探し続けた。
そんなとき、たまたま、この青木村の外れにある山中に、一軒の古民家が建っているのに知り合った。定年になる前年の11月はじめで、全山紅葉のさなかであった。そのたたずまいに一目で惚れこんで即決。あちらこちらを一緒に見て廻っていたので、どちらかが先導したわけではなく、呼吸がピタリとあった。
人が住むには、どういう土地が良いのか、昔の人は良く知っている。
南向きの斜面にあって、北風を山が防ぎ、西陽は丘がさえぎる。川が流れているが、湿気はなく、眺望も開けている、そういう風水の理に適った土地に古民家はあった。
そのとたんに、二地域居住の夢はふっとんだ。上田は新幹線も停まり、東京から遥けき地ということはないが、当時の住まいは横浜だった。行き来するには骨の折れる距離となる。自宅を売り払い、完全に移住することにした。ただ、もう迷いもなかった。
最初から、ファーマーズロッジという構想があったわけではない。
純粋に百姓をしたかった、のである。
ところが、米をやっても気候があわず、うまく行かない。蕎麦もしかり。いろいろやってみたが、水が冷たく、土地も痩せているので、どうもうまくいかない。
かつての友人がご機嫌うかがいと遊びを兼ねて、農作業の手伝いに来てくれる。その領域を拡張して、民宿を経営すればどうか、とあるときひらめいた。教えるまではできないが、一緒にやるなら楽しい農業になるだろう。どうせやるなら面白い方が良い。
ゆったりとした空間のゲストハウスを建てて、おいしい空気と水、そして四季おりおりの山の風景が癒しになるのではないだろうかと・・・。
当時としては珍しく、皮切り的な存在となるアグリツーリズムの実践。農業体験民宿=ファーマーズロッジ・たんぽぽ堂の誕生である。良一さんは、自らを『堂守』と任じた。
話題性に富んだこの民宿のことは、田舎暮らしの雑誌などにも掲載され、評判となった。
奥様の手料理も口コミで伝わり、評判が評判を少しずつ呼ぶようになっていった。
堂守は1937年生まれであるから、戦前派に属す。日本の国中が貧しかった時代を、そして戦後の目覚しい復興の時代を体験されている。芯に一本の筋がスーッとはいっている、そういう世代の方である。また、ご夫妻ともに生まれ育ちが神奈川で、長く横浜市南区に住まわれた。だから、たんぽぽ堂には、都会的なセンスが漂っている。
まずは、ゲストハウスやレストランに飾られている、かずかずの調度品にそのセンスがうかがえる。
同じお金を持って、海外に旅行なり赴任なりするとして、なにをして、なにを食べて、なにをお土産に買ってくるかで、個性や品性が出る。
パリに赴任されていたこともあって、フランスやスペインのものが多く見受けられる。南欧の開放感がしのばれる。
高級ショッピング街のブランド品なぞに興味はなく、朝市などに通い、つぶさに歩いて、気にいったものは手にとり、もうちょっとまけなさいよ、とネゴシエーションも楽しむ。そういう奥様のそばで、堂守が黙って微笑んでいる、そんな光景が、目に浮かんでくる気がする。
堂守もワインスクールの校長をつとめた方のようだから、お人柄とともに、品度が知れる。夕食に薦めていただいたNZのワインは、料理を引き立てるベストのセレクションだった。Sauvignon Blanc−わたしの好みとも一致しており、嬉しかった。
たんぽぽ堂の看板やロゴもセンスが光る。
確認しなかったが、恐らくご自分でデザインされたのではないか。そういうセンスが、生き方だとか、調度品だとか、話しぶりの中にひそんでいる。
これらのものは、横浜住まいの時代は、なかなか飾る場所もなく、箱に入れられて、天袋や押入れにあらざるを得なかったと云う。田舎屋を建てて、出してみたらこんなにあった、と奥様は笑っていた。
きっと、田舎暮らしの動機のひとつとして、押入れに眠っているオーナメントたちを開放し、存分に外の空気を吸わせてあげたい、という気持ちが少しあったのではないか、と推測する。
わたしたちにも似た気持ちがある。田舎の生活はひろい。開放のイメージがある。わたしや妻もその空間に開け放されるが、本や食器や飾り物や、その他のすべても開放してあげたい。人の目や手に触れられるものとして産まれたものが、深窓の令嬢のごとく箱に入って、押入れの奥にあるのはしのびない。たとえ、汚れたり、日に焼けたり、壊れたりしようとも、それが彼らのまっとうなありようである。吉田さんご夫妻のように潤沢でも、目を見張るものを持っているわけではないが・・・。
たんぽぽ堂と云うと、『ヤギの民宿』としていろいろな雑誌等にもとりあげられている。
わたしが、調度品に興味を抱いたのは、吉田さんご夫妻がしたかったことは『都市生活の先にあるものとしての田舎暮らし』なのだろうと確信したからだ。やがて、たんぽぽ堂を象徴するようになるヤギは、そういう生活のパートナーとして、後追いのかたちでごく自然にあらわれたのであって、ヤギというフィルターだけを通してたんぽぽ堂をみてしまうと、半分しかわからないままになってしまう。
都市生活経験者ならではのセンス。田舎暮らしならではのヤギ。そのギャップ感、あるいはバランス感、これがたんぽぽ堂の本質なのではないかと考えた次第である。
ヤギは、自然に飼い始めた。なんらかの決意とか、ビジネスプランという下地があったわけではない、と云う。
堂守の実家ではヤギも馬もいた。幼い堂守が世話役であった。そういう原風景があったので、ごくごく自然にヤギが飼われた。
最初は、雄1頭・雌5頭を宮崎の中村牧場から空輸した。アルパイン種だった。
数年でヤギは30頭となり、やがて40頭になった。その半数は5月から11月までお乳がとれる。とれたミルクをどうにかしよう、ということでヨーグルトやチーズづくりがはじめられた。とくにチーズは発酵食品の最たるものである。発酵技術を習得するために試行錯誤の連続であった。
ヤギ舎も増築していった。チーズ工房も建てた。
いつしかヤギのミルクやヨーグルト、そしてチーズは、この“たんぽぽ堂”を象徴するようになっていた。
ヤギチーズの手造りは、さらに評判を呼んだ。JICAの研修生も受け入れた。彼らがアフリカ等に帰って、その国の仲間にたんぽぽ堂の話しをする。それを聞いて、遠く海外からもゲストが舞い込んでくる。堂守の造るチーズの教習に、あるいは奥様の手料理を食べに、たくさんのゲストが訪れるようになったのである。
チーズ等のミルク加工を考えるのならば、ある程度の頭数を飼養する必要が出てくる。加工の素材として一定量以上のミルクが必要になる。いくら冷蔵庫で保管したとしても鮮度は落ちていく。3日が限界。そうなると2-3日の乳量でチーズ等への加工に値するだけが溜まらないとまずい。40頭にもなった背景には、そういう理由がある。
月齢12ヵ月ほどのヤギ肉の腿をあぶって、塩だけで調味したものを夕食にいただいた。あっさりとヘルシー感のある美味しさだった。これならばじゅうぶん商品価値がでる。
ヤギの毛皮が椅子に敷かれてあった。こういう利用方法もあるのか。
家畜として命を受けたものには、なるべくその生命を余すところなく使わせていただく、という敬意があるべきだ。それは知恵であり、愛情の反映であると感じる。
堂守と堂母のおふたりで、こういう世界を創り上げた。
村はずれの2,000坪の土地とその一体の山中で、こんな物語がこの11年で進行していた。まさに百聞は一見にしかずで、それはわたしが想像していた規模やレベルをはるかに超えるものであった。感服。
ヤギを世話する、ヤギを見る、ヤギの話しをする。そういうときの堂守の仕草や表情からは、ほんとうにヤギが可愛くて仕方がないことが伝わってくる。
ヤギを飼うことを念頭において土地探しをしたわけではないが、山の斜面や土地の広大さは、まさにヤギにはうってつけである。
この土地のたたずまいを一目で気に入って棲みついたご夫妻だから、この土地に生息がふさわしいヤギという動物は、ご夫妻と遇うべくして逢ったことになるだろう。
こうして、堂守曰く、『ヤギに振り回される至極の世界』にはまっていくことになった。
田畑で米や野菜を育てることと、家畜を飼うことは、自然や動植物を相手にするのでも、負担にはおおきな違いがある。
赤い血が流れて、体温のある動物相手の畜産は、やはりいつでも重労働である。
掃除をして、餌をやって、乳を搾る。ときには病気で弱る固体もある。発情し、異性を求めて凶暴になる。冬場でも緑餌を欲しがる。出産。除角や去勢。日々に事件が発生する。そして、搾ったミルクの自家製加工。からだがいくつあっても足りない。
田舎でのんびり・・・どころではなくなった。しかし、とても楽しい日々である。
戦後、日本で70万頭もいたヤギは、いつのまにか里から姿を消した。いまは2万頭、うち半分は沖縄である。
牛に比べて乳量が劣り、季節によっては供給が止まる。また、肉利用も、そういう文化が本州以北にはないし、1頭あたりの分量も牛や豚にはるかに劣る。畜産の商用化に波にのみこまれた。アメリカの商スタイルを真似て、みんなダメになってしまった、と堂守がつぶやいた。
粗食に耐えて堅牢で、しかも除草効果や堆肥利用もあり、女性や高齢者でも飼養できるヤギは、自家用にもっとも優れていると言われる。なによりも愛らしさがある。仔ヤギを幼稚園や小学校の校庭に連れ出せば、人気の的になること請け合いである。つまり、人を癒すことができる。
ヤギそのものをビジネスにするのではなく、ファーマーズロッジを介在し、餌やりや乳搾りの飼育体験や副産物としてのミルク利用を画策した。『たんぽぽ堂』 は、堂守の先見性によって、移住後、10年近くを経て、ようやく軌道にのってきたかに見えた。
ところが、わたしどもがたずねたときは、仔ヤギが2頭だけ。
堂守の病気療養を機に、ほとんどのヤギをこの春に手放したのである。
昨秋、体調を崩された堂守は、長期の入院・加療が必要となったため、毎日のヤギの世話は奥様の負担になってしまった。
春には出産の時期を迎える。夫婦ふたりの絶妙なコンビネーションで、生き生きとまわっていたたんぽぽ堂ワールドにきしみの音がたつようになった。
ファーマーズロッジは一時閉鎖せざるを得なかった。そして、夫婦での話し合いの結果、ヤギたちには里親を探して、手放すことにした。つらい決断だったと思うが、それがご夫妻にも、またヤギたちにも最善の解であると、わたしも思う。
廃業も覚悟されたようだが、世間と没交渉になるのは避けたいとのことで、ゲストに一定の制限をかけながら、民宿業は続けていくことにし、4月中旬に再開した。
たんぽぽ堂のことは、昨年から知っていたが、方々にパイプをつなぐのは今年の活動テーマと考えていた。また、出産場面なども観てみたかったので、春になって連絡した。そのとき、堂母より、はじめて堂守が入院されていることをうかがい、臍を噛む思いだった。
退院目途の5月GW明けにでも再度、連絡をください、ということになり、今日に至ったというわけである。
お逢いしてみると、堂守は、療養中とは思えないほどに、顔色もつややかでお元気そうであった。
朗らかな方だが、自分を高らかにお話しになる人ではない。わたしどもの質問に応えるかたちで、会社生活からの転進のこと、田舎暮らしのこと、山のこと、庭のこと、ヤギのこと、などについて、ひじょうに簡潔に語られる。手放したヤギを上手く飼育できない里親がいて、ヤギが病気になってしまったりしている、明日はそのヤギに会いに行く、ということを話されたおりは、すこし淋しさが漂った。
もっと早く始めれば良かった、60歳で転進して、無我夢中でやってみて、ようやく軌道に乗せるまで10年近くかかった。あれもやりたい、これもやってみたいと思うことがある。もう少し早く始めていたら良かった、とつくづくおっしゃった。
堂母も明晰な方で、わたしども夫婦の構想に対して、いくつかの貴重な助言や提言をくださった。
最近では、地元の方もときどき食事を楽しみに来ることもあるが、どこの誰をターゲットにするか、という考えをキチンと持った方が良いということであった。現金収入に関する地元の実態。つまり1,000円で外食する、ということに関する都会の就業者と田舎の農家等の考え方や現金の重さの違いは、たしかに踏まえておく必要があると思った。庭で自生するハーブ類を摘んで、新鮮さをそのまま活かして調理すると、都会からのゲストは大喜びするが、地元の人は、なんだここでは草を喰わすのか、となる。そういう苦労談も穏やかに披露していただいた。
いずれ人はみな老後を迎える。医療環境についても、終の棲家となすべきところは、じゅうぶんチェックしておくべきだとご指摘いただいた。ご夫妻も移住時は、そこまで考えておらず、結果論であったが、青木村周辺では佐久総合病院などの充実した施設があって、助かっていると云う。
わずか一泊だったが、遠く若い頃からお世話になった、敬愛する先輩夫妻に再会したような、そういう錯覚を覚えていた。堂守の包容力やポジティブさや心のひろさが伝わってくるのであった。
早朝の散歩に出ると、自生の三つ葉とセリを摘まれていた奥様が、あいにくの天気ねぇと声をかけてこられた。そよぐ程度の風に、向かい側の山峰が朝もやに揺らめき、庭に目を転じると、雨に濡れる木立が浮かんでいる。しっとりと落ち着いた風情である。こんな風情もいいものです、と挨拶し、30分ほども山径を歩いた。せせらぎや花々や、小屋からさかんに人を呼ぶ仔ヤギたちにあいさつをする。そぼふる雨の山径に傘は無粋である。ヤッケを着て、両手を振りながら歩くのだった。
青木村で、吉田さんご夫妻にお逢いしたのは、単にヤギ飼いとしての、あるいは民宿経営者というものではなく、10年以上も前にスケールの大きな人生のパラダイム転換を遂げた先輩と邂逅することであった。
どうかご快癒され、里山生活を存分に楽しめる日がまた来ますよう、心よりお祈りいたします。