道しるべ・トップ/あらすじ |
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■ 都会での準備篇 |
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Chapter0. としのはじめの家族会議 |
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Chapter1. プロローグ |
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Chapter2. 2008年のできごと |
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Chapter3. 2009年のできごと |
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3-1. 2009年活動の3本の柱 |
3-2. ふるさとセミナーに参加して |
3-3. 三種に決めた理由(わけ) |
3-4. 土地を探す_1(訪秋第4回目) |
3-4-1.冬の藤里 |
3-4-2.三種にて |
3-4-3.サクラバ設計と高橋林業 |
3-4-4.在郷の外食文化 |
3-4-5.食の庭 いし川 |
3-5.Ksさんめでたく採用なる |
3-6.開かれた地域とはなにか |
3-7.日曜の農塾生 |
3-8.鶏をみる、山羊をみる |
3-9.土地を探す_2(訪秋第5回目) |
3-9-1.ライフプラン休暇 |
3-9-2.地権者への連絡 |
3-9-3.土地に関わる情報収集 |
3-9-4.風のガーデン |
3-9-5.ふたつの農家レストラン |
3-10.全国山羊サミットへの参加 |
3-11.土地の交渉 |
3-11-1.地権者と会う |
3-11-2.Itさんの場合 |
3-11-3.Isさんの場合 |
3-11-4.土地の調査(訪秋第6回目) |
3-11-5.地権者同行(訪秋第7回目) |
3-11-6.不動産という財産 |
3-12.近隣の反応 |
3-13.仮住まい場所を探す |
3-14.新居の計画始動 |
3-15.Osさんのこと |
3-16.ふたたび金ちゃん濃情 |
3-17.秋田暮らしお試し事業 |
3-18.至福のとき |
3-19.「土地探し」が終わって・・・ |
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Appendix1.笹村あいらんど視察 |
Appendix2.たんぽぽ堂視察の記 |
Appendix3.すれ違いは埋まるのか |
Appendix4.田舎の土地の探し方 |
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■ 移住開始篇 |
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Chapter4. 2010年のできごと |
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2008年が「静」の、もしくは「内面的」な一年とするならば、2009年は「動」であり「外交的」な一年になります。都市生活の最後を謳歌するとともに、秋田への定住に向けた下ごしらえをアグレッシブに進めていこうと考えています。その活動を記録していきます。
2009年のおもな活動
2009.1.18 ふるさとセミナーへの参加
2009.2.7-2.14 第4回秋田訪問
2009.2.26 鴨川自然王国セミナーへの参加
2009.5.5 自然養鶏場・笹村あいらんど視察
2009.5.7 NPO横浜里山研究所入会
2009.5.9 荒井沢緑栄塾楽農とんぼの会入塾
2009.5.30-5.31 ヤギ牧場民宿・たんぽぽ堂視察
2009.6.20-7.4 第5回秋田訪問
2009.8.29-8.30 全国山羊サミットへの参加
2009.10.10-10.13 第6回秋田訪問
2009.10.31-11.8 第7回秋田訪問
2009.11.22 ふるさとセミナーへの参加
2009.11.23 三種ふるさと会への参加
2009年は、第3回目となる家族会議-Chaper0-で明けました。
「リストランテ開業」だけが山の頂上で雲間から抜け出して見え、肝心の真の目標や道程が分からないでいる段階から脱しましたので、足元をきちんとみつめて、いまやるべきことに集中できるようになっていました。
2009年は、次の3本の柱をたてて取り組んでいくことにしました。
1.終の棲家となる場所(土地)探しや仮住まいの選択
2.秋田では得られにくい取組みへのパイプづくり
3.帰農実習
1.終の棲家となる場所(土地)探しや仮住まいの選択
定住の事前準備ということで言いますと、この一年でやっておくべきことを「土地探し」の一点に絞ります。それ以上のことは、実際に住み始めてからやります。都市生活と両立しなければならないのですから、あれこれやるべきことを発散させず、終の棲家とする土地を決める、その一点に集中することにしました。
土地つきの中古住宅をリノベーションする構想も持っていました。そこに古民家があれば、再生したいとも思っていました。ただ、実際に動いていますと、わたしたちが気にいった土地に、気にいった古民家などの物件があるというのは、きわめて難しいことがわかってきました。そもそもそういう条件の良いところは空いていません。
ですから、まずは土地を探し、そこを購入するなり、長期で借りるなりして、住宅を新たに建築するのが現実的と考えています。
田舎で土地を探すのに、不動産業などはありませんので、地元との情報パイプが必須となります。まずは情報集めをお願いし、要所々々で現場におもむき、その地主の方と交渉していくことを繰り返すことになります。その後、その近傍でしばらくの仮住まいとなる空き家も探すことになります。
この土地探しの一件でも、かなりのパワーがいります。したがって、ここだけに集中します。
2.秋田では得られにくい取組みへのパイプづくり
2010年春より秋田に定住して、生活基盤の立ち上げにかかりますと、しばらくはなかなか身動きがとれなくなると思われます。
山羊を飼養し、乳製品の加工を試みたいと考えていますが、たとえばこのノウハウは秋田県外に多くありそうです。山羊を飼養し、その乳を加工して商品開発したり、民宿ビジネスにつなげたりしていますのは、北海道、長野や栃木、そして西日本にさかんなようです。となりますと、そういう方とのパイプづくりを定住後にこしらえるのは大変です。ことしのうちに行っておきたいと考えています。
山羊飼養のほかにも、イタリア野菜の栽培、イタリアンの農家レストランの経営、パーマカルチャ塾などがあげられます。
3.帰農実習
これはいたって簡潔明瞭で、これまで進めてきました「インターネットアグリスクール」は机上中心でしたので、実践のフェーズに移行したいということです。インターネットアグリスクールでもオプション的に実習のコースが年に4回ほどありました。ただ、なにぶん秋田県内での開催ですので、訪秋のタイミングにほどよく重ならない限り、現実的でありません。そこで、この一年は「神奈川県民向けの定年帰農者育成研修」を受講してみたいと思っています。
ふるさと回帰支援センタのホームページからイベント情報にアクセスしてみますと、つねに10数件の「ふるさと暮らしセミナー」が並んでいます。そのひとつとして、1月18日に第2回秋田暮らしセミナー〜三種町(みたねちょう)〜が開催されました。
是非参加を、という要請もいただきましたので、銀ぶらを兼ねて、夫婦で出かけました。田舎暮らしを考えてみようという方に、こういう機会が設けられることは良いことだと思います。他の町村のセミナーもいろいろ聴講されている様子の参加者もいました。都市部の出身者や若い方も来られ、盛況でした。
Ksさん夫妻は、ご主人が名古屋、奥さんが秋田市の出身。ふたりのお子さんの育児環境という関心もあって、臨まれたそうです。わたしたちよりひと廻りほど若い世代です。
わたしたちも子どもを田舎で育てたいという思いがありました。それはかないませんでしたが、是非そのようになさい、とひとごととも思えずに、声をかけました。
Ksさん自身は帰農を志向しています。そういう志望者にどのような道があり得るのか、どのような支援措置があるのか、また、生活費の水準はどのていどであるのか、そういう質問を秋田県の職員やNPOにされていました。
そういうデータをきちんと整理して提供することが、これから非常に大事ではないかと感じましたね。そういうことをできる地域には、もっと聞いてみたいという興味が深まりますが、それが見えないと誰も入口から中にはいっていかない気がします。
Ksさんは、農業法人への就職の道を探り、またそれ以外も道筋もふくめて、幅広い視野で移住を真剣に進めようとしています。(http://blogs.yahoo.co.jp/kita_y2001)
自身の準備もきちんとできていないわたしたち夫婦になにができるでもありません。むしろこういう仲間に力をいただきながら、歩いていけるかも知れないなあと感じたものでした。
少子・高齢化と人口の減少が叫ばれていますが、わたしはこれはなにも悪いだけのことではないと思っています。社会的な背景に、生活や価値の多様化もありますので、日本が成熟国家に向けて歩み始めている証とも言えます。
ただ、危惧すべきは、若者が都市部にだけ集中し、田舎から消えてしまっていることです。しかも、その都市部の若年層の多くは、閉塞感を感じており、覇気を失っています。少子・高齢化そのものが悪なのではなく、地域と都市部のいびつなかたちが根本の要因で、その上に少子・高齢化の波が乗っかってきて、問題を大きく複雑にさせているのだと思います。
しかし、発想をポジティブにして、もしも若者の流出を抑え、むしろ都市部の若者や、あるいは団塊世代までの中高年を含めて流入できるような力を地域が持てば、おおきな可能性が出てくるのではないでしょうか。
人口が減るわけですから、消えていく集落が出てきます。一方、活性化していく地域も出てくるのではないかという気がします。日本の田舎が一律に衰退していくのではなく、大きな格差が生じていく時代を迎えるのではないか、と想えるのです。
いまでも田舎で育った若者は都市部に流入していきます。
その若者を受け入れる企業もまた、大きなうねりの中にあります。年功序列・生涯雇用の枠組みが消え去って、成果主義・実力至上主義になっています。会社同士、競争し、社員同士、競争しているわけです。正社員・派遣社員といった雇用格差も生じています。
このような社会に、ひとつひとつの個性を持った人間が、すべてフィットできるとはとても思えません。競争よりも、みなで手をとりあって、共生していくのが、気立てとして似合う若者も多く居ます。
都会があれば、その対比に田舎があります。消費があり、生産があります。競争があり、共生があります。それぞれの世界に、老若男女が等分に配し、どちらもバランスよく、そこそこ、ほど良く成り立っていることが心地よい国づくりの条件なのではないかと想います。
地域が頑張って雇用を創出し、都市部の若者をひきつけていくのは、人間の多様な生き方を認め合っていくための道につながります。ですから、NPO一里塚のような活動は、地域のためではありますが、畢竟(ひっきょう)、都市部に住む若者にも夢を与え、ある種の救いにもなるのではないかと思っています。
ひたいに汗し、実りの秋を迎える、そういうまっとうな仕事を望む若者の一群はかならず居るのです。
セミナー終了後、NPO一里塚の清水さん、三浦さん、相原さんらと簡単な打合せを行いました。
「2010年の春から三種のどこかに居をかまえたいと決心しました。ついては、土地探しのお願いに2月上旬に再度、訪問しますので、よろしくお願いします」
と申し上げました。
わたしたちの定住エリアの決め方は、けして模範となるものではないと思います。
ふるさとセミナー等を広く聴講しながら、それぞれの土地柄や気候条件、買い物や病院の所在、定住に関わる有形無形の支援策の有無等々の情報を得て、そこからいくつかの候補をピックアップし、現地を観て、なんどか往復して、徐々に徐々に絞り込んでいく、そういう過程の方が自然で、無理がありません。
わたしの場合は、いきなり銀座のセンタにおしかけて、数日後から秋田に行くので、と訪問先を引き出し、まず百聞は一見にしかずとばかりに縦断したわけですから、体ごとぶつかるようなずいぶん粗いやりかたです。
にも関わらず、一等最初に訪問した町に結局は落ち着こうとしています。これを縁というのでしょうか。
人は、恋愛の末に結婚まで至るとき、それを運命と感じます。ふたりの出逢いは奇跡だった、と信じます。しかし、良く考えてみれば、いえ、普通に考えてみても、ほとんどの人は、手に余るような選択肢を持っているわけではありません。それぞれの身の丈の行動範囲のなかで、出会いがあって結ばれているのです。そうして十年、二十年、三十年とかけて、互いを人生の伴侶として認め合っていくようになるのです。
つまり、選択肢の多いことが幸福の条件になるわけではないのです。
終の棲家を探しも、男女の出逢いに似ているかも知れません。
・さいしょは、たまたま廻ってみた町のひとつ。
・ちょっと気になったので、また訪れてみた。
・そうしているうちに、いろいろな相談ごともさせていただくようになった。
・そういう支えがあればこそ、定住の決心もつくようになった。
・そういう支えをいただいた人の居る町に終の棲家を定めるのが、もっとも適切な道に思えるようになった。
このようなステップを経て、わたしたち夫婦にとっては、三種町で終の棲家を探してみよう、ということが、いつの間にか既知の事実になっていました。1月18日には、NPOの代表メンバーにお伝えしただけです。
これからの具体的な土地探しでは、さまざまな不測の出来事が起こるでしょう。土地探しは、田舎定住のほんの第一歩ですから、住みはじめてからこそ、ほんとうにドタバタ劇場の日々が続いていくことになるでしょう。なかには、苦しかったり、哀しかったりすること起こるでしょう。
それをバネにし、楽しみに変えて、乗り越えていく力が、その土地、地べたにあるわけではありません。わたしたちを含めた「人」にこそあります。
わたしに幸福の条件を語る素養なぞありませんが、小さなさりげないできごとに感動し、あるいは感謝できる心のありよう、そしてマイナスを笑い飛ばして、プラスに買えていく思考の強さは、ぜったいに必要なものと思います。
人生は夕方からが楽しい。そういう集大成としての生きざまに、わたしたちを導くものは、土地の縁ではなく、人の縁にこそあるような気がするのです。
2月7日(土) 移動<航空機> 横浜自宅⇒藤里町
2月8日(日) 藤里町
2月9日(月) 藤里町⇒三種町
2月10日(火) 三種町
2月11日(水) 三種町
2月12日(木) 三種町
2月13日(金) 三種町⇒秋田市
2月14日(土) 帰宅
詳細スケジュール
秋田空港に降りますと、奇遇なことにセミナーで知り合ったKsご一家がおります。あのセミナーがきっかけとなり、県の担い手支援班より「就農準備実践研修」の合同面接会が8日に行われるが参加してみませんかという誘いがあったのだそうです。
農業法人への「就職」について、40歳を少し過ぎた年齢を気にされていました。都市部では確かに厳しいかも知れないが、農村では立派な若者の部類になるし、誘いがあったということは少なくとも可能性があるわけで、思いのたけをぶつけてみることですね、と言葉をかけて別れました。進もうとする道はやや異なりますし、世代の違いもひとつありますが、同志を得たような気分です。幸あれと祈り、きっとうまく行くのではないかという予感もしました。
さて、わたしたちの第4回目の訪秋目的は、きわめてシンプルです。三種に定住します、ついては土地を探したく情報提供くださいということを、役場やNPOのみなさんの前で宣言させていただくことです。
ところが、旅程は藤里町が最初となりました。「森のかぞく」の小坂さんから、2月7-8日にNHKの特番の取材が入るので、それに合せて来てほしいというリクエストをいただいたため、寄り道することにしたのです。もちろん、厳冬の白神山麓は楽しみでありました。2泊に過ぎませんでしたが、自然は期待にたがわず、多彩な表情でわたしたちを魅了しました。
この取材劇、主役はむろん小坂さんです。NHK秋田支局のアナウンサー大沢さんご夫婦が、プライベートで民宿を訪問し、その感動を電波にのせて伝えたいという思いが取材にむすびついたのだそうです。
白神をライフワークにされているプロ写真家の江川正幸さん、金ちゃん濃情の金野さんが脇固めをし、そこに秋田定住を考えている横浜暮らしの夫婦が端役で登場して、その交流風景を取材する、そういう意図のようです。こういうものには面白がって参加すればよいと思いますし、わたしにとっては、平凡社の「アニマ」などを通じて憧れていた江川さんとお逢いできる特典もあります。
民宿の囲炉裏を囲んで、金野さんお手製の微発酵木いちごワインと麦焼酎とをハーフでブレンドし、きりたんぽをいただきながら、白神のこと、食のこと、農のこと、今という時代のこと、そういう話題で盛り上がります。共通の話題がありますと、旧知の仲のように想われてきます。くちかずの少なさが東北人の特徴のように云われます。事実、多弁ではありませんが、雪に囲まれて一冬を過ごすみちのくの人は、実はひじょうに根が明るくて、エネルギッシュです。いまも伝わる小正月の祭りなど、伝統行事にもその一端がうかがえます。一見、シリアスなテーマの話題も、ジョークを交えながらさらさらと流れていきます。
翌朝は、吹雪のなか、一面雪に覆われて春を待つ金ちゃん濃情から取材が始まります。8,000uの土地を町から無償で借り受けて、うち5,700uを耕し、一部をハウスにしております。数十種類ものベリーの苗木をわが子のように育て、取材者に紹介していく金野さんの誇らしげな表情にはなんとも言えないものがあります。
それから一同は、江川さんのガイドで、樹齢1,100年とも云われる大沢の「水神様のおおけやき」を訪ね、また、3本のブナの巨木が信仰されている「熊野神社」に向かいます。江川さんは、永く白神などの自然に関わり、カメラを通して対話し続けてきた方です。いまでも年間の1/3は山、1/3が里、そして残り1/3が講演や個展で各地を渡り歩く配分となっているそうです。眼が違いますね。視点のおき方と言いますか、自然のフレームの切り方と言うのでしょうか、江川さんの言葉を通して自然を観ますと、単調な銀世界が活き活きとし始め、生命の息吹や鼓動を感じていくことに驚きます。
金野さんと言い、江川さんと言い、実に目が澄んでいます、少年のように。わたしにも少し残っていれば、ありがたいのですが。
二ツ井町の食堂で昼食をとった後、七座(ななくら)神社を訪ねました。米代(よねしろ)川との対岸には7つの峰‐座‐を持つ七座山があり、それぞれが神の座として信仰の対象とされています。鳥居のひとつが山に向かって建てられています。山を拝みますと、本尊にお尻を向けることになります。本尊よりも七座が尊いということなのでしょうか、面白いものです。
ここで妻がひいたおみくじが、なんともいまのわたしたちに勇気をくれるものでした。一文を紹介します。
運勢;実力を蓄えて、じっとチャンスを待っている状態です。ここは狙いを十分に絞り、希望をもって英気を養う時。焦ってはいけません。できるだけ適格な情報をつかみ、十分な根回しをしておくと、先行きが楽しみとなる。果報は寝て待て。
NHKの取材陣が去り、一夜が明けますと、白神は最高の贈り物を差し出してくれました。地元のひとも滅多にないと驚く、晴天です。しかも、一面に若雪が積もった直後の快晴です。江川さんは、これはすごい、これはすごい、と興奮しながらカメラを持って外にでずっぱり。わたしたちも木枝の雪が朝陽にとけ、風に凍ってきらめく幻想的な光景にみとれます。
わたしが育ったころの秋田市もこれ以上の雪に覆われました。それでも、太陽も拝められず雪に閉じ込められた、という暗い印象はまったくありません。むしろ、日に日にあたらいい変化があり、なにがなくとも飽きずにいられた、という記憶がつよくあります。その記憶が、30数年ぶりに現実のものとして甦った気分でした。
藤里から三種に移動しますと、雪がまったくありません。いつになく雪のないシーズンということでしたが、内陸寄りと沿岸部で、これほどの気候の差があります。北東北の面白さはこういうところにもあるのでしょう。
過去3回の訪問では、ゆめろんに宿泊しておりました。温泉もあって、1泊朝食つき5,500円ですから、十分にリーズナブルです。それでもわたしたちのように、定住の準備で年に何度か行き来して、連泊することになりますと、相応のダメージになってきます。地元の方が、いわゆる「お金のかからない生活」が可能なのは、土地・家・農耕具など、代々続いた資産を引き継いでいるからです。あらたに生活基盤を創るため者には、資金の壁も高くそびえます。そのために事前準備に関わる費用はできるだけ抑制しておきたいものです。
そのような事情も配慮いただき、清水さんの紹介で、知り合いのHtさんが所有する森岳の別邸をわずかな謝礼で貸していただけることになりました。つい最近まで娘さん一家が住んでおられたそうで、調度品などもそっくり残っています。Htさんは、若かりし頃、器械体操でインターハイにも出場され、その後の教員生活でも教え子たちをテニスで全国レベルに引率された方で、温和ななかに一本の剛健な芯を感じさせます。
この1年程度のわずかな準備期間の中ですが、こうして様々な善意に囲まれています。清水さんとHtさんがいくら同級生であるからと言って、ふたつ返事で、みず知らずの者たちに別邸を貸し出すのは、なかなかできないことです。頭が下がる思いがします。
わたしたちの秋田への定住は、わたしたちの還り道です。都会に出てきて、じつは大切なものに気づかずに急ぎ足で通り過ごしたり、落し物をしてきたりしました。還り道では、それをゆっくりと拾い直しましょうよ。この旅の終わりに妻がつぶやきました。まったくそのとおりです。
2月11日(水)は建国記念日の祝日でしたが、NPOのブレーンメンバーが休みを返上して、補助金利用の提案書をつくることになりました。締切りは、翌12日です。
メンバーは、清水理事長の他、伊藤さん(三種町八竜総合支所地域づくり課課長補佐)を中心に、荒樋さん(秋田県立大学生物資源科学部教授)、相原さん(三種町教育委員会課長補佐)、笹村さん(三種町農業委員会事務局長)という顔ぶれ。途中から、農の専門家として加賀谷さん(元浜田農協指導課長)が加わり、最強の陣営です。
休耕地を耕起して、大麦や蕎麦、メロンやアスパラガス、あるいはベリー類等を栽培。それを失業者雇用に結びつけるための補助金利用の提案となります。
朝から夕刻までおつきあいしましたが、もちろんわたしたちは聞き役専門です。それでも、この町の農の現状や現在の栽培技術の知識等、ひじょうに参考になり、面白い一日でした。わたしは、砂地での栽培に適作な野菜はかなり限られてしまうという印象を持っていましたが、むしろ広範なんですね。畑作は全般的に問題なくできるそうです。
また、この町やNPOが進めようとしている町づくりの一環と、わたしたちが標榜するパーマカルチャとに(規模の差はむろんありますが)重なるところが多々あることに気づきました。要所々々のスケジューリングも符合します。一緒にやらせていただくことによって、わたしにも少しはお役に立てることがあり、場合によってはなんらかの恩恵を享受できるかも知れないと手前味噌で感じたものです。
“たとえこういう補助金がついたとしても数年間のこと、いずれ帰農者には独り立ちしていただく必要がある、そういうところまでしっかり視野に入れて、この町を頼ってきた就農者を路頭に迷わせることがあってはならない”と荒樋先生が力説されていました。こういうポリシーが熱くみなぎっているわけですから、頼もしいものです。
NPO等のみなさんへの三種定住宣言、土地探しのお願いは、翌夕の週例会の場をお借りして行いましたが、すんなりとしたものでした。一年で4度もまいりましたので、もうすっかり顔見知りになっていることもあり、やあまた来たのかい、そうか、こっちに住んでみることにしたのか、そうか、それはよかった、おいで、おいで、という具合。土地探しの件についても、わかった、わかった、土地ならなんぼでもあるべ、という具合です。
頼りになるのか、ならないのか、いずれ情報源としてのお願いをさせていただきました。
空家や空地などの物件は、たしかに多数あります。三種を訪ねるごとに、そういう物件を案内くださいますので、もう10件以上は廻ったでしょうか。なかには、驚くような掘り出し物もあります。今回も、土地150坪、家屋40-45坪(床坪)、物置小屋20坪(床坪)程度で、しかも、築年7-8年のリフォームもほぼ不要と思われる物件を、1,100万円でどうか、というものがありました。国道7号線の脇道を入ってすぐですから、立地も申し分ありません。もし、わたしたちが探しているものが「住居」ということであれば、即決したと思います。
わたしたちにとっての土地は、住居の場所であるとともに、畑や牧畜等の生活基盤の場でもあり、またいずれ店舗を開設する場にもなりますので、これらの条件に見合うものは足と時間をかけて探す必要があると考えています。したがって、まずはどういう条件のところを探したいのか、をみなさんにご理解いただくことが重要となります。
<わたしたちが探す土地の条件>
1.場所
・風光明媚である必要はないが、里山を感じさせる場所であること
・臭気・騒音等の障壁がないこと
・水田の農薬散布の影響のない場所であること
・小さな泉・沼の眺望があればさらに良い
・山・川・野の(起伏の)眺望
・周囲の住民の反対がないこと(人の出入り・畑作・畜産)
2.土地
・メイン道路に面する必要はない
・土地は、畑地を含むと500坪以上が望ましい
・住居を建てられる場所(農地法の制約)であること
・菜園のついている土地であること
・畑地として農薬で汚染のない土地であること
・豊穣な土壌であれば申し分ない
・沢や川から小川を引き込みたい
・雑木林に接している場所であること
・土地は借り入れでも購入でも可
・持ち主の理解
その機会は、存外に早く、そして身近なところからやってきました。
三種町の特徴を活かす「農」というキーワードのもとで、町営スキー場跡地の再利用を画策できないものか、NPOを中心に検討が進められており、まずは、景観作物として菜の花を前年秋に蒔いて、搾油までを試行しようとしています。
菜の花の種を蒔いたばかりの斜面を、前年9月の訪問時に案内してもらいました。Uターンされた米川さんがブルドーザーを駆って、大車輪の活躍をされたことなどもうかがいましたが、その際、このスキー場のすぐ海側に小さな集落があって、そこがわたしたちの条件に合うのではないのかなあ、というお話しを清水さんから聞いていました。
9月は話しだけで終わっていましたので、早速、連れて行っていただくことにしました。7軒の集落があり、うち2軒は廃屋となっています。そして、その1軒に妻がものの見事にはまったのです。ここに棲みたい、と即断です。
清水さんは、この家にはIsさんという94歳のこの町の長老とも云うお爺さんが住んでおられ、前年に亡くなって廃屋となったことはご存知でしたが、土地の権利などが現在どのようになっているかまでは、さすがに承知しておりません。隣家、また隣家とたどって、3軒となりのKkさんまで行き着きますと、いろいろお話しをしてくださいました。
この7軒は、この地を開墾したみなさんです。この地を開墾し、子を産んで育てて、やがてその子どもたちは都会に出て行った。ついで親もその子を追うようにして出て行ったが、みずからが開墾した土地への郷愁が強く、一旦は帰ってくる。しかし、老いには抗えず、一軒、また一軒と消えていってしまう。
そのお宅の権利はご子息にあるだろうから、譲渡の意向があるか、どうか渡りをつけていただくこともおっしゃっていただきました。
ずうずうしくもKkさん宅にあがりこんで、お茶をいただきますと、井戸水でたてているそうで、ほんとうにおいしいんです。Isさんのところの水はもっとおいしいのですよ、と云われ、そうとう響きました。
ご子息などの意向もあることとて、まずは交渉の入り口のところを清水さんにお預けすることにしました。うまく進んでくれると幸いです。また、たとえこの土地の交渉が成り立たなくとも、わたしたちがブレないことが大事です。紆余曲折や時間がかかることがあっても、いずれどこかにご縁のある場所がきっとある、そんな気がしております。
サクラバ設計は、能代市にある建築設計事務所です。「森のかぞく」で、2007年の第4回木の建築賞を受賞されました。
前年9月に宿泊したときに、建物への小坂さんの強いこだわりを感じました。木製サッシの窓、陶器製の洗面、ヒバ風呂など。ただ、そのこだわりを具現化するには、工務店だけでは無理で、いずこかの設計事務所が関わっていることは想像に難くありません。
この2月の滞在でも、薪ストーブひとつで家全体が快適に温まるという断熱性の高さも実感しました。大型のストーブのある部屋ののぼせるような暑さや、その部屋を出たとたんに縮み上がってしまう寒暖の温度差もありません。木のぬくもりの伝統と、最新の建築技術とが、見えないところで融合しています。
どのような家に住みたいの、と妻に聞きますと、小坂さんの家、という応えが返ってきます。わたしにも共感があります。そこで小坂さんから、設計士の方を紹介いただき、お逢いすることになりました。
家には、そこに棲む人の価値観や生き様などがすっかり投影されますので、まずはコアをぶらさない、ということが極めて大事です。
挨拶をかわし、サクラバ設計の業績等、ひととおりの説明を終えた後で、櫻庭さんは、そのように言い添えました。それが、いまの段階では、わたしたちに伝えたいことのすべてであるように想えました。
事前に、わたしたちの計画書は送付しておりましたので、ひととおり目を通してくださっていました。わたしたちがひとつの勝負に出ている、という意気を理解いただいたうえで、
・ 設計事務所は、施主の利益代理人である
・ 施主の家への思いを具体的に図面化して施工管理まで行うものである
・ したがって、施主と設計事務所、工務店とはトライアングルの関係が理想となる
・ 設計期間は1年ほども見ておいた方が良い
・ 店舗を兼用するための建築基準の高さや安全面を考えると、わたしが構想しているセルフビルドは薦められない
・ 設計費、及び断熱工法での建築坪単価(50万弱/坪)
等々、基本的なところを説明いただきました。
森のかぞくの設計・建築に関する残談もしましたが、建築に対する櫻庭さんの情熱が伝わってきます。ああ、プロだなあ、と感じます。偉ぶるところもいっさいなく、ユーモアをまじえた柔らかい話しぶりなどに、高校時代からの親友のKtに似た印象を持ちました。また、櫻庭さんの師匠は、前年5月に訪問しました西方さんになるそうです。なるほど、あい通じるものがあります。
高橋林業は、秋田市河辺にあって三代続くという材木業です。
一級建築士もとって設計も行いますが、材木商としてのビジネスが中心で、その業界での差別化をはかるために古材の扱いに力を注いでいます。薪ストーブや薪の販売にも力を入れています。
吹き抜けには、できれば古材の柱や曲がった梁を利用したいと思っていることもあり、まずは百聞は一見にしかずとばかりうかがってみることにしました。
・ 厳密な規定があるわけはないが、家も地産地消で建てていた戦前の、築60年以上の古民家から出る木材を古材としている。実際には、80−100年前のものが多い
・ 現在の木材とは質面で比較できないが、敢えて同等レベルで価格を比べると古材の方が3−4倍は高い
・ 家屋の増改築が行われる、春〜秋にかけて、古材も出まわる。いまは在庫がもっとも少ない時期
・ 住宅の外観では分からない。住宅のリフォームや店舗の新築や改装などの現場で、以前から古い木材(古材)が現代の建築に組み込まれ使用されているものをたびたび目にする
材木置き場まで連れて行っていただき、実物を前に話しをうかがいました。材木を扱ういまの仕事を愛し、また戦前の大工を畏敬していることが感じとれます。ご主人が秋田市、奥様が青森市の出身というところでも、親近感が沸きます。
まだ棲む土地も決まっていませんので、櫻庭さんについても、高橋さんについても、顔合わせで終わりましたが、ここでも今後の相談相手のひとりができ、心づよく感じたものです。
また、こだわりには、相応の資金が伴います。引越し費、土地や家屋、鶏や山羊、その飼育舎、畑やベリー園の種苗・肥料、ハウスや農耕器具、厨房器具、開店に関わる登記費用などの初期投資の他、生活諸費用、仮住まいの費用、商売を始めた場合の運転資金等々を考慮しますと、ひとつのアイテムのこだわりは全体のバランスをすぐに崩壊させます。そういう難しいハンドルさばきをこれから求められていくのだろう、と実感したときでもありました。
国道7号線を能代から南下し、市の中心部を外れてほどなく、琴丘の周辺までレストラン・和食処や喫茶店がみあたりません。北上するとさらにまばらです。
ここら辺には家族揃って外食する文化が、まんずねぇもな、と地元のみなさんが言います。そういう文化がないから外食産業が育たないのか、外食する場がないから文化が育たないのか。
ある商社の逸話を思い出します。靴を売るために、砂漠の国にセールスマンを送り込みます。最初のセールスマンAは、当国に着いて活動を始めるなり、本社に報告します。
「ダメです。この国では誰ひとりとして靴をはいていません。」
それではと、Aを本国に呼び戻し、かわりにセールスマンBを送ります。Bも即刻、本社に報告します。
「最高です。この国では誰ひとりとして靴をはいていません。」
現在のところ、わたしが抱いている、この地域での農園リストランテのイメージは、次のようなものです。
まず、自産店消を特長とするリストランテですから、野菜やハーブをふんだんに採取でき、ヤギの搾乳もできる春から秋にかけては、開放的な構えをすれば良いと思っています。気持ちとしては、夜もふくめて毎日でも良いくらいです。
夫婦経営という現実を見据えますと、農作業とのバランスを考え、昼は週4回程度、夜は予約制とすることが身の丈となるでしょうが、できるだけ多くの方に足を運んでほしいし、ガーデンを散歩し、ヤギにも触れ遊んで欲しいものです。このパーマカルチャといった循環文化の素晴らしさを広く伝えてみたいという気持ちがあります。
反して、冬季は畑もミルクも生産がとまります。一面銀世界の雪化粧になればまだしも、だいたいが荒涼たる殺風景となります。社会も閉塞し、人の行き来もとどこおります。つまり、店のありようも、おのずと他の季節とは異なってきます。
食材ならば、日本海の幸があります。冬の魚介を中心にした地産地消のイタリアンは、メニュを考える側にも魅力的です。冬季は、自産店消の看板を降ろして、地産地消型のリストランテに衣替えをするのだろうと思います。
なによりも、閉じこもりがちになる地域のみなさんのコミュニティの場となるような、そういう雰囲気でやれれば良いかたちになっていくような気がします。珈琲一杯で、薪ストーブの炎を眺め、あるいは、私設図書館の本でも読みながら、日長、のんびりしていただければよいのです。
アンケートというわけでもありませんが、地元のみなさんに“そういう店があれば、入ってみたいと思いますか?”とおりおりに聞いてみますと、面白い反応が見られます。
中高年の男性は、行ってみてもいいかな、というレベル。自分から積極的には行かないが、まあつきあいで行くこともあるだろうという感触です。
女性は、総じて行く、行く、絶対に行く、という回答で、しかし、雰囲気や質、価格にはシビアだろうなと思わせます。
食ということに関しても、女性と若者がやはり圧倒的に革新派です。女性や若者層の洗礼を受けながら、やがては広い世代の層に、そして家族連れに愛されることを目指したいものです。
能代市浅内の「食の庭 いし川」は、完全予約制の隠れ家的な食事処です。前年の5月に清水さん、伊藤さんが周辺の空地を案内してくださったときに、そう言えばこの付近に、と思いつきのように寄ってみた場所でした。
以来、機会を見て予約しようと思いながら、なかなか実現せず、今回も10日の火曜日は本来定休日であるところを、わざわざ昼に明けていただきました。
奥さんの実家を店舗兼住宅に改装して4年目になるそうです。ご主人は長崎の出身で、わたし同様に長年の会社勤めを辞め、転身されました。一時期、うどんすきを修行された時代もあったようで、どうせならば好きな料理を創ってやってみたいという思いで、開店に至ったようです。
わたしども夫婦と清水さんの3名で、2時間ほどもゆったりとお昼どきを過ごしました。2,000円のコースは、量・質ともに満足のいくもので、蘭風のインテリアや季節の花々の飾りつけなど、ちいさなところまで気配りが行き届いています。
わたしたちも来春に三種に定住し、数年後にはこのような規模の店を開きたい旨、お伝えしますと、いろいろな話しをしてくださいました。地道に一歩一歩やってみれば、どうにかなるもんだというようなことで、店の運営にはやはりご苦労も多いようですが、そういう時間がまた、ひじょうに充実しておって、ご夫婦ふたりでそれを楽しんでいるようにも見受けられました。
完全予約制にするか、一元のお客も受け入れるかは、小規模店舗の経営上、ひじょうに重要なファクタです。無駄を省いて、着実に進めようとするならば、だんぜん予約制に傾きます。満席や回転率を追求するのではなく、高品位のコース料理を限られた数でもてなすことは、夫婦経営規模の店では合理的です。その基本戦略が、この「いし川」にはマッチングしているのだと思います。
わたしの場合も夜はそうです。ただ、もし噂を聞きつけて、ちょっと寄ってみた一元の珈琲一杯のお客様をおことわりしないことも、昼であればできないものか、模索してみたいと思っています。となると、通年の定番ランチメニュが重要となります。定番にプラスして季節のメニュをコース調で加える等の工夫をしたいものです。
隣町にはなるが、是非こちらに来て頑張って欲しいというエールをいただきました。転身組の仲間同士で一緒に盛り上げて行こうという心意気をありがたく頂戴いたしました。
ヨーロッパの田舎をドライブしていますと、びっくりするような在に洒落たレストランがあります。そもそもそれがオーベルジュの原点なわけですから、特殊なものではなく、村々に溶け込んできたひとつの風景になっています。民度の高さや豊かさを感じます。日本でも、この秋田でもそういう試みが増えているような気がします。即物的な金儲け主義の対極に、あるいは反動として、このような動きもあることを、嬉しく思うのです。
第4回目となる秋田訪問は、もっとも厳しい季節を体験するためにも設定したものでした。暖冬で降雪も少なく、その点では肩透かしをくったような感じですが、じゅうぶんな手応えがありました。地元紙の秋田魁新報社・荒川記者から、これからわたしたちを定点的に追跡するような記事を組みたいという申し入れもいただき、どうぞどうぞ、と快諾いたしました。
この季節は、朝夕の空に雁の群れがはばたきます。ときには、何百羽という大群もみられます。V字になり、あるいは直線にと、隋所に形状を変えながら群雄する様にみとれながら、いよいよこの町のどこかに棲みつくようになるのだなあ、という実感が湧いてくるのでした。
横浜の自宅に戻り、不在中のメールをチェックしますと、Ksさんから面接結果の報告がはやばやと入っています。
仙北市西木にある農業法人に無事に採用されたとのこと。めでたし、めでたし。
場所は、角館市の中心地から車で10分程度のところで、お米・農作物・米粉パンの販売、販路拡大が主な仕事となります。米・野菜作りの技術も身につけていきたいと考えており、合鴨農法の無農薬栽培米の農家に入って、栽培にも取り組んでいくようです。
都会生活の整理と田舎暮らしの準備とで、しばらくは大変でしょうが、きっとこのご夫妻は良い方向に進んでいくものと思います。
お子さんの教育環境などの問題が、いちばん深くて大きな課題であったそうです。田舎で遊ばせると、子どもが活き活きと元気になる、それならば、という思いが強くあったようにうかがっています。親は、子どものことならば、そうとうのところを頑張れます。ですから、きっとやってくれるものと確信しています。
わたしたちも一通のメールから力をいただいた気がしました。
農業組合法人の「鴨川自然王国」は、農生活への誘(いざな)いの先駆者です。歌手・加藤登紀子さんの夫である故・藤本敏夫氏が1981年、千葉県房総に設立しました。「人生、二毛作」を提唱し、里山帰農塾などの啓蒙活動をひろく実践して、首都圏との近傍性や温暖な土地柄を活かしながら、先進的な活動を続けています。
“王国”という独尊的な呼称がひっかかりますが、居住者ひとりひとりが王様です、ということなのでしょう。
2月26日、ここのセミナーが開かれるということでしたので、妻も連れ立って、聴講にいきました。
このセミナーの特徴はふたつ。
ひとつは行政色がないこと。
もうひとつは40歳前後、いわゆるアラフォー世代の人材がとりしきっていることです。
そこに「開かれた地域とはなにか」ということの大事なヒントが隠されている気がします。
事務局の宮田さんが、ひとしきり王国の概要を説明し、その後、“私の農的生活”という演題で、林さんの体験談が披露されました。
林さんは、世界中を放浪後、鴨川の古民家に10年ほど前に移住。現在、家族4人で半農生活を送りながら「地球に調和という絵を描く」をテーマとしたイラストレータの活動を行っています。LETS(Local Energy Trading System)を具現化した、150家族が参加する地域通貨「安房マネー」の取組みの紹介など、ひじょうに興味深く拝聴しました。芸術や農作業や村での生活そのものが、つまりはすべてがひとつの創造行為である、という考えをお持ちです。仏教や禅にも通じる思想に見えます。
そういうものを求めて、世界中を廻り、やがてイタリアに辿りついたとき、それは君の国にこそあるじゃないか、と諭されたことが、帰国のきっかけになったそうです。
環境問題やエコロジーへの関心の高まりに加え、景気の後退による都市部での雇用悪化が、地域へ働き手を還流させる好機であるかのように言われています。帰農の研修や助成金の制度、あるいは永住者への報酬金や固定資産税の免除など、さまざまな特典を整備して、人材の受入れに取り組んでいる自治体が増えています。「田舎で働き隊」など、国のてこ入れもいくつか出てきました。
修復困難なほどにダメージを受け続けてきた農林水産業ですから、こういう策はあって然るべきですが、もっとも重要なことは、どういう地域にしたいかという「ビジョン」を描くことです。それをリーダがきちんと示すことです。そして、そのビジョンを実現すためのプランやプロセスを、また、現状の姿を、良いこともそうでないこともすべてあからさまにして、人材を広く公募することです。
助成制度があるのでどなたかおいでください、では駄目。活性化はいつまでたっても図られず、助成の期限とともに、失業者が田舎に溢れかえることになります。ビジョンに共鳴して、一緒に汗をかこうとする人材こそ求められます。
鴨川への移住に優れた補助制度があるわけではありません。それでも、藤本さんが亡くなられた後も、宮田さんや林さんに代表される個性豊かな人材が移住し、藤本イズムは脈々と受け継がれています。その流れが正の循環を生み出し、先住の地元民と流入した人材の間の信頼感を育みました。それぞれの特質を理解し合ったフラットなヒューマンネットワークを築いて、老若男女の別なく、誰しもが生活の喜びと存在感をみいだすような地域社会が成立しようとしています。開かれた地域社会の誕生です。
いかにビジョンが、そして人材が重要であって、金はその補助に過ぎないかが分かります。
わたしよりも一回り以上も若い、宮田さんや林さんの話しは、けれんみもなく、土と陽のなかで息づいていることがそのまま伝わってきて、聴いて心地よいものでした。
定住にあたっての準備や移住後の日々のてんまつを、わたしはすべて記録し、できるだけ開示していきたいと考えています。行動やかかった費用など、多岐にわたってすべてを対象とします。
開かれた地域のために、情報公開はなくてならないものです。わたしたちの個人活動などは一粒の米のようなものですが、それでも、わたしという懐中電灯が照らす小さな範囲ながら、三種の姿が浮き彫りになってきます。そこには秋田や、東北や、日本の田舎への類似項もあるはずです。そういう行為は、まずは誰よりもわたし自身にとって意義あるものなのでしょうが、ひいては開かれた地域への一助になるかも知れない、ということを、鴨川のおふたりの話しを聞きながら気づいた次第です。
今年準備しておきたい3本柱のひとつが「帰農実習」であることは、先に触れました。
昨年のインターネットアグリスクールという机上の講習から、実体験のものに一歩前進させたいと思っています。
わたしの目指す生活スタイルは半農半商というものですが、就農に関しては、実はあまり心配していません。わたしにじゅうぶんな力量があるからではなく、いまの時点で心配してもしようがない、という理由にもならない理由が大きいのですが、農の師匠ならば三種にたくさんいます。東北では、生き物(人も含めて)が成長することを、「おがる」と言います。わたしはこの言葉が好きで、と云いますのは、他動詞形がありません。育てるのではなく、育つ、のです。
周りの農家に張り合うつもりもまったくありません。イタリア野菜やハーブなど、地産でまかなえないものを自産すればよいわけで、それはそれで試行錯誤があるでしょうが、基本的には手間のかからない丈夫な作種がほとんどです。周りにあるものは、農のプロの方から安く分けでもらえれば、それがいちばんです。
ただ、土いじりはしておきたいと考えています。いい土とはどういうものなのか、放棄された畑を再度開墾し、良い畑にするためにはどういうプロセスを経るべきか、そういう知識や経験はすこしでも踏んでおきたいのです。「おがる」ための環境整備、それが土づくりなのだと思います。
わたしは平日、自宅と会社の行き来にあって、往復3時間の道のりの僅か数bを砂利道に触れるだけで、あとは舗装路です。このような生活を送っている者が、来春からいきなり放棄畑のまんなかで立ち尽くすのは、さすがに避けたいところです。
市民菜園が近所にあって、猫の額ほどの畑でしたが、ながく利用していました。そこが数年前に廃止になり、土いじりの機会を失ってしまいました。まずは土をいじれる「場」を是が非でもみつける必要があります。
「荒井沢緑栄塾 楽農とんぼの会」は、都市部では希少となった、横浜市栄区の荒井沢という里山の保全・回復に貢献することを主題とし、平成8年に設立された市民運動の団体です。
■ 里山を守る
■ 農を楽しむ
■ 地域と交わる
のスローガンを掲げ、毎週日曜日の朝から昼過ぎまでを農作業のコアタイムと定めて活動しています。
この地区の田畑は、昭和38年の東京オリンピックに向けた東名高速工事の山砂取りでおおかた埋められてしまいましたが、僅かに残ったものも、農家の高齢化や後継者不足によって、徐々に放棄され、荒れるにまかせた状態となっていました。こうして散在する放棄畑に区民が集い、援農のかたちで再生を図ってきたのが始まりとなります。発足当時は、いろいろな制度の壁があり、また、農家の方からは、素人になにができる、などと揶揄されながらも、週末の活動を地道に受け継いできました。今では周囲の農家からも頼りがいのある存在になってきましたが、それでも身の丈のペースを崩さず、楽農とんぼを謳歌しています。
わたしも、このような活動が有志によって行われていることは、数年前の地域誌などで知っていました。しかし、新たな会員を募る風もなく、発足当時からの気心の知れたメンバーの秘密基地という様相もうかがえましたので、残念ながら縁はなさそうだなあ、と勝手に決め込んでいました。わたしの自宅も栄区にありますが、荒井沢が具体的にどこにあるものかも、従って調べずしまいでした。
ところが、縁というものはまことに不思議なものです。奇遇が奇遇を生み、このたび、とんとん拍子で入塾できたのです。
奇遇が奇遇とは、つぎのような顛末です。
土いじりをしたいと思ったわたしが、最初に申し込もうとしたのが「神奈川県民向けの定年帰農者育成研修」です。春と秋を中心に年8回の受講回数となり、農機具の操作方法など、ひととおりの課目がありますので、“体験”という観点から適当と考えました。ところが、申込み直前になって受講資格をあらためて確認しますと、どうもこれは農者用のもののようで、既に農地を確保しているか、農地確保の見通しがたっているというのが、条件になります。わたしのような者向けには、家庭菜園レベルの2-3日ものがあるようですが、人気コースでひじょうに倍率が高いようです。そもそも、菜園はすでに行ってきましたので、あまり魅力も感じません。というわけで、公的な研修の利用は断念することにしました。
となりますと、ボランティア活動による休耕地の整備など、別の手立てを探してみる必要があります。この時点で、荒井沢のことは、遠い存在に思えていたこともあり、わたし自身からアプローチする候補としては浮かび上がってきていませんでした。
そこで、これらの経緯や希望などを端的に書きとめてブログにアップし、どなたかこのような活動や団体をご存知ならば紹介ください、と呼びかけてみました。4月17日のことです。当日のうちにヒントを下さったのが、藤里の小坂さんです。
横浜の南区にNPO NORA(よこはま里山研究所)という団体があるので、ここの吉武美保子さんに相談してみるといい、とアドバイスいただきました。おふたかたは棚田の再生を通じ、旧知の仲とのことです。
早速連絡をとって、22日にお逢いし、いろいろお話しをうかがいました。そのなかで、吉武さんが、以前は栄区の住民であり、しかも荒井沢緑栄塾創設時の主要メンバーであることが分かりました。
このような巡り合わせがあって、入塾に至りました。NPO NORAと荒井沢緑栄塾とは、異なる団体です。つまり、吉武さんの奇しくもの属人的つながりでご紹介いただいたわけです。しかも、来年春までの限定という条件も踏まえて、快く受け入れていただきました。
荒井沢は、自宅から自転車をのんびり漕いでも、20分かからないところにあります。鎌倉街道をわたって、しばらくしてにわかに緑が濃くなり、崖道を抜けて畑が拡がります。15年近く住んでいて、こんな近所にこういう里山風景があるとはついぞ想像もしませんでした。異空間にワープしたような気分です。まさしく灯台もと暗し、です。
それにしても、一通のブログが、秋田から横浜の南区へ、そして栄区と情報を運び、人と人とを結びつけました。面白いものです。
荒井沢緑栄塾は、入会してみますと、4つのF(Flat, Flexible, Frank, Friendly)を活動モットーにした開放的な集団です。
原則週一回の農作業で、しかも無農薬で育てられること、里山の風土に適したもの、景観の保護、という条件から、豆・いも・そば・麦を中心とした作付け作物を選定しています。
また、収量を追いかけるのではなく、まずは農を楽しむことをポリシーとして、会員による自産自消を基本としたシステムをつくりこんでいます。
特筆すべきは、年に40回もの地域との交流イベントがあることで、JICAの研修生や高校・大学生、あるいは知的障害者などと野菜やそばを通じた触れ合いの場を設けています。農と食が、温もりにつながっているもので、素晴らしいことだと思います。
会の運営には、さすがにビジネスマン集団が創りこんだ知恵や工夫が垣間見えます。組織づくりや情報伝達網なども高いレベルにあります。しかも、年々、見直しや改善を図って、PDCAを廻しているところは勉強になります。
5月3日に体験入塾し、9日には正式に会員登録しました。
わたしの目指す半農半商というスタイルが、この週一回の市民活動レベルの延長のすぐさきにあるとは思っていません。投入する労力や目利き力は、半農と言えども、相応のものが要求される筈です。
ただ、ビジネスマンとして最後の一年を迎えている、現在のわたしの状況や立場を考えれば、ベストの巡り会わせであると云えます。農を楽しむ、という原点を週一回のペースにあって、まずはしっかり学んでみようと思っています。
畑で野菜やハーブを栽培し、鶏を飼って卵を採り、ヤギからミルクを搾る。
そういう自産のものに、地産の特産品や魚介を組み合わせて調理し、ゲストに提供する。
これがわたしたちが描く“農園リストランテ”のコアコンセプトです。
これを実現するにあたって、もっとも配慮しなければならないことは、どれをどこまでやるのか、夫婦でどういう分担でやっていくことが身の丈であるのか、というバランス感であると思っています。
野菜や卵やヤギミルクそのものを商流に乗せることは考えていません。自給のため、そして店での消費が目的です。ところが、そのために作目や作量をどうすれば良いのか、何羽規模の鶏を、何頭規模のヤギを飼養すれば良いのか、かいもくわかっていません。
ベストの配分を図るためには、試行錯誤による経験則が重要になります。定住後の2年はそのためにありますし、その後も向こう10年はいろいろなチューニングが続くのだろうと想います。それをみけんに皺をよせながらやるのではなく、お気楽に楽しみながらやっていくことが、定年移住の大事なところだと思っています。
しかし、ただやみくもに進むのは賢明とは言えません。だいたいの目論見は立てて臨みたいものです。そのためには、その道の経験者のお話しをうかがい、また実地に足を運んで、この目で観てみることがいちばんなのではないでしょうか。また、そういう方々とのパイプづくりができれば、来春の移住以降、壁にあたってはたと悩んだときに、相談にのっていただけるかも知れません。
それが、今年の三本柱の2番目に掲げたテーマ、『2.秋田では得られにくい取組みへのパイプづくり』の趣旨です。
具体的には、@養鶏場の視察、A養ヤギの視察を軸として、B養蜂場の視察、C不耕起栽培実例の見学、Dハーブ園・ベリー園の視察、Eセルフビルドハウス実例の見学、Fパーマカルチャ活動実践の視察、と盛り沢山のことを考えています。欲張り者です。
まずは軸となるところの養鶏場と養ヤギの視察にいってまいりました。
前者は、神奈川県小田原市。自然発酵の養鶏場である“笹村あいらんど”。
後者は、長野県青木村。ヤギチーズを特徴とした、アグリツーリズムのファーマーズロッジ『たんぽぽ堂』です。
その視察の内容を、個別にとりまとめてみました。
Appendix1.笹村あいらんど視察の記
Appendix2.たんぽぽ堂視察の記
ここではその視察の記に重複しないよう、これらの活動を通じて感じた、もうひとつのことを描いてみます。
それぞれの道を究めた方にお逢いすると、強い刺激を受けます。達人が発信するオーラが、わたしの内のなにかに化学反応をもたらし、わたし自身にも推測不能な変化が起きます。
それは鶏が出しているものではありません。ヤギから受けるものでもありません。人から人へと伝わってくるものです。鶏やヤギは、その人にとってなくてはならいものですが、生き方や価値観を具現化するための媒介者であり、パートナーです。
“笹村あいらんど”の笹村さんは、自分の価値観や社会への疑問の投げかけを“鶏や自然農”を通じて表現されていますし、吉田さんも、人生の集大成のありようを“ヤギや体験型民宿”というステージのなかで模索し、演じています。ですから、こういう方とお逢いして、わたし自身にもたらされる化学反応は、『それでは君が里山暮らしという環境下で発露しようとしている君自身の人生感や価値観や人生の集大成のありかたとは一体なんなんだね。』という自問自答の作用によるのです。
笹村さんは孤高で、批評の方でもあり、ひじょうに高い見識で、社会や日本という国を見ています。“地場・旬・自給”というブログに毎朝、2,000字もの記事をアップされますが、その鋭い視点には舌を巻きます。そもそもはご住職であり、また画家を目指してパリに留学もされたようです。そして鶏をやって自然卵を育て、また有機無農薬で田畑を続けています。
“たんぽぽ堂”の吉田さんは、陽と包容力の方です。ながく会社勤めをされ、定年後、一転して山暮らしをはじめました。企業戦士として生き抜いた末、自らの癒しの場を青木村で創ろうとされ、結果、働きづくめとなりました。ただ、それはひじょうに楽しく充実した忙しさでした。長老の趣きもあり。
おふたかたとも、ご自分の人生を真っ向歩んで、その過程で鶏と逢い、ヤギと出会いました。鶏やヤギは、彼らとともにあって、苦労や喜びをもたらし、生計の一部を支えるようにもなりました。
いまのわたしたちにはビジョンがあります。そのビジョンを事前検証している段階です。
やはりやってみるべし、ですね。真っ向からやってみようと考えています。その結果、成果もあれば、失敗や課題が山積し、頭を抱える自体があろうとも、そこでの気づきや出逢いというものが、わたしたち夫婦それぞれの生き方や価値観を昇華する“何か”に至らしめる気がします。
笹村さんに、わたしたちはヤギを飼いたい、と話しましたら、ヤギか、いいなあ、とおっしゃいました。
吉田さんに、鶏の話しをしますと、いちどやってみたんだがね、とおっしゃいました。
馬が合う、という言葉が人間同士にあるように、作物や家畜との間にもありそうです。わたしたちは、なにと馬が合うのでしょうか。それを時間をかけて、探してみるのも良いと思っています。
畑も果樹園も、鶏も、ヤギも、蜜蜂もやって、しかもリストランテもやる、というのでは、いかにそれぞれが小規模であっても、夫婦ふたりには過負荷になります。
なんでもやることは、またなにもやらないことに似ています。中途半端にいろいろやるよりは、あるところにエネルギーを傾斜すべきです。その傾斜すべきものはなんなのか、これを追いかけてみたいものです。今年は、まず見聞を広げて準備をし、来春から実践し始めて、2-3年かけて目鼻立ちをつけ、10年かけて絞り込んで深堀をしていく、そういう感覚は間違っていないと思います。
笹村あいらんど、たんぽぽ堂に共通した課題があります。わたしが勝手にそう思っているだけですが・・・。
後継者がいない、ということです。あれほど素晴らしい養鶏理論と技術、あれほどの魅力的なヤギのファーマーズロッジを次の世代に引き継いでいくべき人材がいないように見受けられました。
笹村さんや吉田さんがこばんでいるものでは、もちろんないと思います。あれだけご自分のナレッジやノウハウを惜しみなく披露されるわけですから。
根っこにあるのは、鶏では食えないからです。ヤギでは食えないからです。
ですから、たとえば誰か若者が後継を名乗り出たとしましょう。
気持ちはありがたいがね、苦労ばかりでお金にはならなくてね、う〜ん、考え直した方がいいんじゃないかな、薦められないな。
そう、おふたかたともおっしゃるのかも知れません。
笹村さんや吉田さん個人の領域を超えた、この国での農の暗雲の根深さがうかがえます。
2-3年かけて目鼻立ちをつけ、10年かけて絞り込んで深堀をしていく、その過程にあっては、やはり『キチンと利潤を生む半農半商』のビジネスモデルを標榜するのだろうと思っています。いまの時点で、そこまで言うのは笑止千万であると承知していますが、夫婦ふたりで食いつないでいくことを合格ラインとしながらも、目標は高く掲げるべきと考えています。それによって、後継とまではいかなくとも、同じようなチャンレジをする同志がひとりでも、ふたりでも増えていけば良いのです。
6月21日(日) 移動<マイカー> 横浜自宅⇒三種町
6月22日(月) 三種町
6月23日(火) 三種町
6月24日(水) 三種町
6月25日(木) 三種町⇒秋田市
6月26日(金) 秋田市⇒千歳⇒富良野
6月27日(土) 富良野・美瑛
6月28日(日) 旭川
6月29日(月) 札幌法要⇒三種町
6月30日(火) 三種町
7月 1日(水) 三種町⇒五所川原市
7月 2日(木) 五所川原市⇒能代市⇒三種町
7月 3日(金) 三種町⇒山形・小野川
7月 4日(土) 移動 小野川⇒自宅
詳細スケジュール
わたしたちは、秋田の在郷に土地を求め、数年かけて農園を拓き、その片隅に小さなリストランテを営みたいと考えております。イタリア野菜やハーブを栽培し、ヤギを飼います。自産です。近隣の農家や漁師から食材を求めます。地産です。
どこに土地をかまえるか、ということがひじょうにおおきなウェイトを占めます。職住一体で考えていますので、単に悠々自適で住む場所ではありません。田畑に通うための住まいをかまえるのともニュアンスが違います。
「住む」のではなく「棲む」ところと考えているわけです。
この2月の訪問で、三種町への定住を前提にして、土地探しをお願いしたことは、「3-4-2.三種にて」で触れたとおりです。気にいった土地もみつかり、その初めの橋渡しをお願いしてありました。
ところが、その後、いっこうに進展がありませんので、5回目となる訪秋では、この硬直した状態を打開することを第一目標としました。
終の棲家となる場所(土地)探しは、ことしの3本柱の中軸に据えているもっとも重要なものです。ですから、2週間という長期での訪問を計画し、課題をひとつずつ個別に潰していく作戦としました。前半でともかく地権者への橋渡しを行っていただき、後半で必要な地元での調査を実施する、という流れにしたことは、結果、正解でした。折り返し地点で、その道の専門家であるサクラバ設計さんに会い、アドバイスをいただきました。これもひじょうに有益でした。
この章では、その顛末を中心に記録します。
わたしの会社には、ライフプラン休暇という制度があります。有給休暇枠を、取得期間中にとりきれなかった場合、年々3日間ずつを積み立てていけるもので、ライフサイクルにおけるリフレッシュ・家族介護・ボランティア活動・リカレント教育への参加などに利用できます。
第5回目の秋田訪問では、それを豪勢に10日間、ありがたく使わせていただくことにしました。かなり長期の休暇となりますが、このたびの訪秋は、これまでの、あるいはこれからの定住準備におけるひとつの勝負どころに思えます。それならば『ライフプラン』休暇にまさしくふさわしいではないかと考えられます。
この4月、退職まで1年を切った時点で、上長には、定住の準備状況と今年度のアクションプランについて相談しており、その際、要所での休暇の取得の考え方も理解いただいていましたので、申請もすみやかに受理されました。
2週間という行程のまんなかに北海道の旅程も組み入れました。あれもこれもと計画しているうちに、盛りだくさんのスケジュールになっていきました。
結局、主だったアイテムでも、
@ 土地探し。最大の目的。まずは、候補地の地権者を探し当てること。そして、つなぎを得る。
A 候補地に関する情報集め。価格感の相場や地目の実態などのデータをできるだけ収集すること。また、候補地への移住に関して、設計士のプロの目からのアドバイスを得る。
B 農地法に関わる基礎知識を得てくること。そのため、現地の農業委員会をたずねる。
C 山羊の飼養に関する、NPO一里塚とのコラボレーション(RDF形式)について、週例会の場を利用して提言させていただく。
D 土地探しの合間を見ながら、可能であれば農実習。
E 大潟村で研修中のKsさん、そして高校時代からの親友のKtとの再会。
F 農園リストランテのイメージを得る参考として、富良野の“風のガーデン”を観る。
G 札幌での友人の23回忌。
H 山形にある2軒の農園レストランを訪問する。
I 秋田市、五所川原市の実家に顔を出す。
となります。どうにも欲張り者です。
都市に住んでいる者が、遠方の田舎の土地を探そうとする場合、そこに役場やNPOなどが仲介役として介在してくれることは、ひじょうにありがたいことです。わたしたちはそもそもなにをやりたいのだろうか、ということを、昨春からの活動に並行しながらフォーカスしてきた経緯もあります。土地勘もなかったわけですから、ここに至るまで、そうとうに地元のみなさんを振り回しています。その都度々々、厭な顔ひとつせずにおつきあいいただいており、言葉では表せない感謝の思いがあります。
その一方で、わたしたちの考えていること、やりたいことの本質が、じつは伝わり切っていないのではないか、というもどかしさを感じるときがあります。
都市生活から田舎暮らしへパラダイムシフトしようとしている層には、共通する価値観や感性があります。わたしの場合も、定住への準備活動をするにつれ、何人かの同志と知友となりました。人が人を呼んで、そのヒューマンネットワークも広がっていきます。とくにI/Jターン指向者とは共鳴できるものが多々あります。
地元の方を中心に運営されるNPOのみなさんに、その微妙なニュアンスまで理解いただくのは、元来、難しいことです。生き方のバックボーンが異なるのですから、違いがあって当然です。すべての理解を求めるのは、望むべきではありませんが、そのためにすれ違いが生じてしまうこともあります。
たとえば、土地には、立地条件やたたずまいというものがありますので、終の棲家探しとなりますと、わたしたちには妥協したくないという意思がはたらきます。
この2月の訪問で、戦後、開墾された小さな集落にあった空地が、やはりどうしても気にかかっていました。相続者との最初のつなぎをお願いし、帰浜後もメールや電話でなんどか催促させていただきましたが、進展のない状態となっていました。
このたびも、最初に連れ添われたのは、違う空き家でした。山間の奥まった500坪の土地にある平屋の屋敷です。大理石などを建材に利用した重厚感のある豪邸は、わたしたちには不釣合いです。このままでは、今回の訪秋でも、肝心な土地探しについて、思いがすれちがったままで終わってしまうという予感がしました。
わたしたちの意を毅然と伝えるべきときだと感じました。
結果がどうなろうとも、まずはこの2月の物件をきちんと詰めていきたい旨のお話しをさせていただきました。
ようやく、思いが伝わったか。さっそく廃屋の隣家などを廻ってくださり、いろいろたぐっていきますと、現在、地権は東京にお住まいの四男の方にわたっているようです。また、隣のItさんの土地も空いており、その相続は横浜在住のご子息に移っていることもわかりました。
地元の顔として、理事長から最初の一報を入れていただき、それ以降の交渉は、わたしどもが引き取っていくことにしました。電話をいれていただきましたが、留守のようです。
ここまでは2月の行動を巻き戻して、再生したようなものです。前回はこの状態で三種を離れてしまい、そこで動きもとまりました。今回はまだたっぷり時間があります。
その後、2日待って、動きがありませんでしたので、また催促させていただきました。ようやくつながりました。翌日には、横浜の方にも渡りができました。
わたしも電話口で、かんたんな挨拶をさせていただきました。短い会話でしたが、先方に売却の意思があることが確認できました。
その際、Isさんからは、山林や田畑なども一括して引き取ってほしいことを言われました。いずれ価格をふくめたもろもろの条件を出し合っていく必要があります。田畑の取引には、農地法の規制という高い壁もあります。
ですから、もちろん楽観視は禁物で、最初の緒端にとりついただけのことです。それでも、ようやく一穴が開いたような気分でした。
※ このような都会からの移住者と現地受け入れ側とで生じるすれ違いの背景や処方について考えてみました。
Appendix3.定住者と地域とのすれ違いは埋まるのか
その後、サクラバ設計さんのプロの目から、土地決めに関わるアドバイスをいただきました。
在郷の地には、不動産業が存在しませんので、かなりのところを自力で解決していかなければなりません。土地の借用や譲渡を、地元民同士で進めるケースと、わたしのようなよそ者とでは、その進め方がまったく異なるでしょう。土地売買に関わる基礎知識や留意点をおさえていくことが必要ですし、状況を的確にとらまえ、ときどきにサジェスチョンいただくことはたいへん貴重です。そのためにその道の専門家とのパイプは欠かせないものと考えています。
櫻庭さんには、候補地までご同行いただいきました。
1.地価の拠りどころとなるものとしては、年一度の国土交通省による全国地価基準額(公示価格)しかない。相続税や固定資産税の拠り所となる評価額は、この公示価格をもとに算定されるが、それと売買の実勢価格とも、また異なる。その土地々々の立地条件に左右されるし、売り手・買い手の事情にもよる。近隣の情報も重要になるので、できるだけ情報を集めていくことが大事。
2.相続が都市部の子息にわたっている場合は、とくに地価に関する感覚が違うので注意が必要。性急に進めようとせず、いつか縁のある土地がみつかるさ、と云う気分で一年越しでジックリ取り組んでいけばよい。
3.仮住まいの準備も並行して進めていった方が良い。町営住宅などの確保を、NPOや役場と連携して進めてはどうか。厳密には、住所登録の問題などがあろうが、相談する価値はあると思う。
4.帰浜後、相続者と面会してみることは大事。ただ、結論を焦らず、まずは顔合せと思えばよい。具体化した段階で、司法書士を入れて、法的な問題点を残さないように進めることはぜったいに必要。司法書士は、双方が都市部に在住であっても、こちら(地元)の事務所が良い。
5.農地の取得については、耕作証明書が建築法上でも必要。これは農業委員会などを相談する必要がある。
6.相続人が複数にわたる場合や、土地と家屋の名義が異なる場合などがあるので、要注意。口頭での情報のまま進めると事実と異なり、後の紛糾のもとになるので、キチンと公文書で確認し合うことが重要。
7.今回の訪秋期間中に、
@役場や地域振興局で......
・候補となる土地の地番・地名の確認
・Isさんの山林・農地情報
・条例による、当該地域の「急傾斜地」指定の有無
・上下水道の当該エリアの状況確認
A能代法務局で......
・上記地番・地名情報に基づく
a.公図、b.要約書 の調査(500円/筆)
をしていくと良い。
8.土地が決まっていかないとなにも動かない。それでも土地はジックリ焦らずに腰を据えてかかった方がよい。とりあえず7項の調査を早急に行い、再度打合せしましょう。帰浜後の地権者との交渉模様を踏まえて、7月下旬の櫻庭さんの東京出張のタイミングに合わせて相談しましょう。
というアドバイスをいただきました。
助言に基づいて、訪秋中にできることは、ひととおり済ませることができました。
公的なデータや情報がそろったことで、安心できる材料と注意すべき内容も浮き彫りになってきました。
横浜に戻ってから、地権者との交渉が始まります。先方がどういう方なのか、逢ってみませんと分かりませんが、それはIsさんやItさんも同様で、いきなり田舎の土地を欲しい、と名乗り出たわたしたちの方こそ、酔狂で得体の知れない存在のはずです。人と人とが交渉するのですから、誠意をもって、粘り強く、双方の条件の折り合いをつけていくことが大事になります。
そのときに、こうやって何度か、三種まで足を運んでいることや、現地で得た相場感や情報というものが活きてくるような気がします。
土地探しの全体行程のまんなかで、秋田空港から新千歳に飛んで、富良野のプリンスホテル敷地内にある“風のガーデン”を観にいきました。せっかくの機会ですから、森の時計(喫茶店)やファーム富田のラベンダー、美瑛の丘もたずね、ついで旭川まで足をのばして旭山動物園を見学しました。あくまでも主役は“風のガーデン”ですが・・・。
倉本聰の連続ドラマのこのガーデンのイメージが、わたしたちが思い描く『農園リストランテ』に重なるものですから、どうしても実際に観てみたかったわけです。
期待にたがわず、北の大地の森の奥に、一面、花畑のメルヘンチックな世界が広がっています。洋風の白壁と赤い屋根の建物が浮かび上がっており、こういう雰囲気にカフェがあり、リストランテがあれば、ゲストを魅了するでしょう。
ドラマのロケ地になった舞台ですから、生活臭がありません。それはわたしにはむしろ不自然で、カンパニュラなどの花々だけが植わっているのではなく、野菜や果樹が成っていたり、山羊が鳴いていたりする方がより魅力的なのではないかと思えました。
この規模の庭園を維持・管理するのはたいへんでしょうね。旧ゴルフ場のなん箇所かに育苗の花壇が点在していました。こうして月ごと・季節ごとに入れ替えを行い、手入れを怠らないことによって、春から秋までのシーズン中は、全国からの観光客を、ときどきの花々で感動させる、という仕組みになっているのでしょう。評判をとるものの陰には、いつもでこうして「支えているもの」があります。観光客には、その氷山の一角の陽のあたるところだけをお見せするわけです。それが観光ビジネのひとつの極意でしょう。
ターシャ・テューダーさんの庭園の写真集を思い出しました。
彼女が、バーモント州南部のマールボロという小さな町に移り住んだのは、57歳のときだったそうです。開拓時代のスローライフな生活を実践するためでした。電気や水道などは最小限にとどめて、暖炉とベッドとロッキングチェアー、薪オーブンがあるような質素な室内と古い道具を使う昔ながらの生活です。一日の大半を草花の手入れに費やし、小花模様のドレスやエプロンを手作りし、山羊の乳を搾り、庭でとれた果実で、ジャムを作り、パイを焼きます。料理の秘訣は“近道を探さないこと”。コーギー犬が良きパートナーで、ハトやニワトリなどの小動物と共に暮らし、夕刻に庭先のポーチでお茶を飲むのが日課でした。
ビジネスのための行動と正反対にあります。自分がやりたい、理想の生活をピュアで拓いたことが、世界中の人々の共感を得ました。凄い、ことですね。そのひとことしかありません。すこしでもあやかりたいものです。
マイカーで訪秋した場合、帰路は山形に立ち寄ることにしています。
往路は張り切って、早朝の首都高を一気に駆け抜けていきます。ところが、復路は秋田を朝にでますと、運転疲れの夕刻に都市部の渋滞にはまりますので、さすがに気持がくじけます。
山形の県南からならば、朝食後、ゆっくり出発しても、昼には首都高入りし、帰宅までスムースです。秋田はやはり遠い地なのです。
山形は食材も豊富ですので、その楽しみもあります。鶴岡のアルケッチャーノや米沢のカッペリーニ等、地産地消の名店で舌鼓をうつのです。残念ながら、こういうレベルの、あるいは志の店は、秋田にはまだまだ少ないような気がします。
今回は、鶴岡の「穂波街道 緑のイスキア」というナポリピッツァの店と置賜郡にあるイタリアン農家レストランの「エルベ」にうかがいました。
前者はナポリまで修行に出たという職人による個人経営のレストランです。
手こねのピザ生地にトマトソースやチーズを載せて、石釜で一枚々々焼いていくのですから、うまい筈です。田んぼの真ん中の店構え。シンプルながらセンスを感じさせる外・内装。メニュも季節ごとに絞り込んで提供するという明瞭性があります。こうやって「また来てみたい」と思わせる店には、唯一性・無二性がありますね。田舎ならではの演出という点でもたいへん勉強させてもらいました。
一方、後者のエルベは10名の農家のお母さん達で運営している店です。
800坪ほどの庭園の奥に50人以上も収容できるレストランが建っています。これだけの施設ですから、町が補助金などを利用して建設したのではないでしょうか。庭一面にはハーブが生い茂っています。エルベとは、イタリア語でハーブの意ですから、それにちなんだのでしょう。町のお母さんたちが普段着感覚で経営しています。それがそのまま店の性格になっています。夕刻は5時から8時までの営業ですが、次々に車が乗りつけられ、席が埋まってきました。農家のお母さんが、地産地消で、地元の住民に楽しい雰囲気と料理を提供する、それがコンセプトなのでしょう。
総花的と言いますか、すべてがほどよくあるだけに、正直に言いますと、わたしたちには物足らなさがありました。ただ、こうして地域に溶け込んでいくやり方を採っているわけでしょうから、ターゲット層の満足が得られて入れば、それはそれで良いわけです。
ひとつひとつの店に、それぞれの生い立ちやポリシーやありようがあります。面白いものです。
山形立ち寄りの定宿は、小野川温泉の旅館「うめや」に決めています。
この温泉でいちばん小さな旅館ですが、若旦那が一生懸命盛りたてています。お湯が優しいので、旅の疲れがいっきょにとれるような気がします。
この晩は、ホタルが見事でした。ゲンジ、ヘイケ、そしてヒメホタル。
天候に恵まれ続けた2週間でしたが、その日は午後からさぁーと一雨ありました。その一雨があがって、道路にうっすらもやがかかるような絶好のホタル日和となりました。旅館の宿泊客と連れ立って、若旦那の飄々として軽妙な案内のもと、最後の夜はホタルの乱舞を楽しんだのでした。
2週間という大型の休暇も終わってみるとあっという間です。
訪秋前の最大の目的であった、土地に関する進展が一歩図られたことがなによりの収穫でした。今回の土地に縁があるものかどうかは、まだ分かりませんが、こうして少しずつでも進んでいけることは幸いです。
早朝の散歩で、ホタルをめでた小川を歩きましたら、梅雨日の朝陽をうけた紫陽花に、かたつむりが一匹、枝をつたわっています。ゆったりと登っていく様子が、わたしたちの歩みのように映るのでした。
日本全国に散らばるヤギファン、400名の個人と13の団体13によって、「全国山羊ネットワーク」という会が運営されています。年2回の会誌発行と1回の全国山羊サミットの開催が主な活動です。その第12回となる全国山羊サミットが、今年は新潟県で開催され参加しました。
参加者250名・宿泊者145名というほど規模で、畜産の経営者やその予備軍、研究者、獣医の方、ミルク加工や除草等ビジネス関係者、学生、そしていわゆる愛好者。10代の若者から高齢者までの幅広い年代。意外に若い女性も多数見受けられました。このように現在の日本の人口ピラミッドを見るかのように、老若男女が偏ることなく集う会はなかなかないのではないかと思えます。
「山羊」もさることながら、こういうメジャーとは言えないところに、きちんと目を向けている「人」はどなたも魅力的です。
今回のテーマは「山羊の普及と地域の活性化」。
初日は、基調講演と事例発表。
2日目が、牧場での体験実習という流れです。
福井県今立郡池田町で、いちごや米などの無農薬耕作とチーズ等、山羊ミルクの加工を行っている「TAKARAチーズ工房」・後藤宝さんの講演は、日常、山羊に接している方ならではの体温が感じられるものでした。また、独立行政法人家畜改良センタや地元の牧場主の今井さんによる実演・体験コーナーもためになるものでした。
山羊に関する知識が深まり、飼育作業の体験もしながら、今後の生活やビジネスに関するいくつかのヒントを得ることができましたが、やはりヒューマンリレーションを創ることができたことが、最大の収穫です。
・千葉で獣医業を営んでいたが、新潟の山麓に移住し、第2の人生は狂犬病の研究に没頭しているTjさん。
・大学の生物資源科学部で動物飼養学を長く研究されている、わたしと同年代のNnさん。
・そもそもは造園施工管理技士で、芝の専門家。ヤギの除草効果をビジネスとして仕掛けているYmさん。
・社会人として給料を稼げるようになって、ようやく参加できました、という会社員のTi君。
・秋田の男鹿半島の荒廃した山林や農地を、畜産で転用できないものか、それを観光・教育利用し、かつ地域振興につなげたいとするHdさん。
・田沢湖畔の自宅で、ヤギや羊と暮らす農家のHkさん。
などユニークな面々にお逢いしました。
青木村・たんぽぽ堂の吉田さんにも再会できました。
来春の移住後も、こういうつながりが役にたってくるような気がします。
農水省の調査によると、08年の全国の山羊飼養数は1万4千頭余り。牧場の経営者の声を聞きますと、仔ヤギの引き取り手は、この数年はすぐにみつかり、特に牝は、年々人気があがっているようです。数字に見えないところで、復権の兆しがあるのかも知れませんが、いずれ回復の道のりにはいまだ遠いものがあります。
日本でヤギはマイナーな世界にあります。
わたしが、週末にお世話になっている緑栄塾もそうです。耕作放棄地を復興しようという市民活動を10年以上前から行ってきたわけです。ユニークな存在が注目を受けつつありますが、少なくともメジャーとは言えません。
こういう世界に接していますと、そこに居る人々にある共通点があることに気がつきます。
ひとつは権力におもねないことです。無用に行使することを卑しいと感じ、追従もいっさいしない。そういうタイプの方が多いように見受けられます。
もうひとつは、みなさん、優しさを根底に持っているということです。少数派だからと言って、バッサリと切り捨てるのではなく、そこにある良さを尊重し、大切にする姿勢があります。
面白いことに、こういうマイナーなものを愛する人には、社会的に重要な役割を担っている方が実に多くいらっしゃいます。
大量生産・大量消費や工業畜産、農の近代化等、この国の経済大国化の中核となって活躍している、あるいは、活躍されていた一群です。
20世紀の奇跡と言われた戦後復興や自由貿易に始まるボーダレス化の波、たえまない技術革新などの先頭にたってきた人々が、その先頭にたったが故に、公の場では踏みつけて、急ぎ足で通り過ぎてしまった、このマイナーなものたちに、もう一度目を向けようとしているかのようです。
「1-3. フォースクォーターの岐路にたって」で、競争から共生へ、というようなことを書きましたが、実は競争と共生は対岸にあるものではなく、混然として表裏をなすものです。ビジネス社会は、競争社会ですが、共生の要素もあります。農的な生活は、共生といいますが、競争していかなければならないことも多々あります。どちらに軸がちょっとだけ振れているか、ということなのでしょう。
メジャーな社会にある者が、マイナーなものに目を向けるというのは、従って、ごく自然のことなのかれも知れません。
サミットの会場で、ヤギを飼っていると顔がヤギに似てくるんだよね、というささやきが聞こえました。
そうやって見渡してみますと、なるほどメエエと啼きそうなみなさんでした。
終の棲家となる「土地」を決めること、これがこの年の初めに掲げた第一目標でした。土地が決めれば、いろいろなことが連鎖して動き始めます。逆に言えば、決まらない限り、なにも具体的には拓かないのです。
いくつかの紆余曲折を経ながらも、ようやく交渉もまとまり、所有権の譲渡手続きも完了しました。第5回訪秋の最終日に、その場所とめぐり合い、地権者を探し当て、交渉し、登記が済んだのが、11月下旬となります。9ヶ月余をかけたことになります。
その間、どのような調査・折衝を行い、どうやって知識を習得し、あるいはいかなる基準で判断してきたか、という経験談やノウハウは、How to集として「Appendix4.田舎の土地の探し方」で整理しました。ここでは、わたしたちが在郷のエリアで土地を求めたプロセスやいろいろ感じ入ったことを中心に述べてみたいと思います。
そこには、不動産業等を介在し、ビジネスライクに分譲住宅やマンションを購入する、都市部での感覚とは、まったく異なる世界があります。不動産という財産を扱うことの意味を、相続者との交渉を通じて教わりました。それぞれの人の内に在る、土地や家屋や、あるいはふるさとへの思いを洞察しながら、共鳴し合っていくものがあればこそ、進展していくものなのではないでしょうか。
「3-9-2.地権者への連絡」のとおり、わたしたちの望む土地の交渉相手は、現在、東京と横浜にお住まいであることが分かりました。つまり、土地探しのステージが、秋田から首都圏に移ったということになります。
第5回目の訪秋を終えて、地権者のおふたかたには、すぐ連絡を入れました。土地を譲っていただけないものか、その場合の条件はいかがなものかという交渉を進めてきました。
※ 以下、Itさんの土地を169区画、Isさんの土地を170区画と言います。
こういう交渉事には、素人の当事者同士がやり合うよりは、仲介者をかませて行うことが、通常はスムースに動く気がします。知り合いの不動産のObさんから、ボランティアで仲介役をやってあげてもいいよ、という好意もいただいていました。しかし、結局はわたしたちが自ら交渉を進めてきました。振り返ってみますと、その判断は正解であったと思っています。
169区画は仲介役の労がなくとも即決即断で進みましたし、逆に、170区画では、わたしたちの誠意をいかに伝えるか、その上でIsさんが抱えている“思い”をどうやって昇華していくかという過程と根気が必要でした。とても、ビジネスライクで進むものではありません。
169と170区画は、隣接した土地です。財産価値としては、ほぼ同等です。それなのに、譲渡までのプロセスに雲泥の差が生じます。それも不動産ならば、ですね。
動産であれば、いくつか合見積りをとり、最安で条件の優れたものを選べば、それでおしまいです。ところが、土地や家屋は、たとえそれが長く放棄され荒れてしまったものであっても、地権者それぞれの原点があります。他人であるわたしたちの手に渡すのは、そのルーツを喪失するという心理につながります。もういらないでしょ、買ってあげますよ、というわけにはいかないのです。
今回の2つの区画の譲渡を通じて、人生の彩のような濃淡をさまざまに感じたのでした。
169区画のItさんの場合は、即決に近いかたちで決まりました。
最初の面会で、譲渡の意向とその条件について、概ねの合意が得られ、その後、手紙や電話のやりとりを数回実施しただけで、所有権譲渡の契約に至りました。
最初の面会が7月11日、契約締結が9月12日ですから、とんとん拍子でことが運んだことになります。
Itさんの169区画の土地に対する思いが希薄だった、というわけではありません。
ですから、誰にでも手放すつもりはなく、わたしたちの思いや計画を聞きながら、わたしたちの人物吟味をされたようです。取引希望額を聞かれ、推定の路線価をベースとした価格を示しますと、そうやってきちんと考えてくれるならば・・・、と駒を進めることができました。
169区画では、人が住まなくなって10年以上は経っています。その間、町に拠出するような話題も出たようです。しかし、誰かが還って住み着くかもしれないから、と所有を続け、複数の兄弟に分割相続していたものを調整して、数年前に一括の名義にされたようです。
ただ、
・ Itさんご自身は、家庭の事情もあり、この土地に長く生活したわけではないため、強い執着心まではないこと。
・ これ以上、所有を続けても、縁戚者で移り住む者もいないだろうこと。
・ Itさんご自身の健康の問題もあり、人生の持ち物を整理するタイミングに入っていること。
という事情もあって、譲渡に合意いただきました。もちかける頃合いが良かったということが言えます。
実際の交渉は、Itさん立ち合いの上、わたしと同い年という娘さんが行いました。この方は、現地に住んだご経験もないわけですから、かなりドライです。
ただ、この方はもちろん、Itさんご自身も離れて長くなりますので、隣地との境界については、記憶が定かでありません。あるはずですがねぇ、というレベルでした。本来、それは売主側の責務で明らかにしていただくべきところですが、横浜に在住しているItさんに、そこまで迫ると、譲渡の意向にも影響する可能性があります。わたしの方でも、境界線の確認のためだけに休暇と費用をかけて、現地に飛ぶわけにも行きません。そこで、すこし冒険でしたが、境界線の確認を行わない状態で契約をとりかわしました。地権者がその気になっている期を逃さずに契約まで持ち込む、という“機”を優先したわけです。
そもそも、境界線に関しては、たとえじゃっかん不明瞭であっても、高いお金をかけて土地家屋測量士に依頼することまでは考えていませんでした。隣家とわたしたちの間でほどほどの納得感を得られれば、それでよいと割り切るつもりでした。
結局、のちほどの訪問で、境界線の印は明解に継承されており、杞憂に過ぎなかったことがわかりました。幸運でした。
対照的なのがIsさんのケースです。
最初にお逢いしたのが7月12日、契約締結が11月23日となり、その間、7回にわたって面会しました。また、このご一家と、4泊5日で現地合流して寝食の行動をともにすることもしました。
打合せを重ねる内、親戚のように親しい間柄になっていきました。ただ、“譲渡”という観点からは、なかなか進展せず、粘り強く一歩々々進んできた感があります。
170区画の土地交渉の進捗を、知り合いから聞かれ、いやあ、なかなか前に進まなくてねえ、なにがネックかも、よく分からないんだよ、と応えます。それは結局、金が欲しいだけなんじゃないか、と云われました。もっともな憶測なのですが、実際に交渉しているわたしたち当人には、不思議にそういう疑念は湧いていませんでした。漠然ながら、いつかは良い方向に向かっていく、という予感のようなものがありました。
2回目の面会時に、わたしの方から譲渡に関して考えている条件をメモで手渡ししました。価格やいくつかの条件を具体的に記載したものです。これで、Isさんのお考えとギャップが大きいのならば、諦めるのではっきり言って欲しい、と返答を求めますと、はっきりした物言いではありませんでしたが、かと言ってかけ離れているわけでもないようです。
その提示条件をもとに、次はIsさんの見解を出していただくのが順当です。しかし、その後、連絡がありません。
結局、3回目の面会もこちらから申し入れましたが、その際も具体的なレスポンスは得られませんでした。ことを急くよりは、しばらくは人間関係づくりが大事なのだろうと、まずはいろいろなよもやま話しをさせていただくことにしました。
こうして月1回ほどのペースで顔合わせがあり、しかし、単なる飲み会で終わってしまうことが続きました。
Isさん自身、古里に還る意向はありません。どなたかにそういう予定があるわけでもありません。ご兄弟や縁戚で、土地の譲渡に反対している方がいるわけでもないようです。むしろ、誰かがキチンと棲んでくれることを望んでいる様子もうかがえます。価格やその他の条件に決定的な不満があるわけではない、のです。どうもよく分かりません。
ただ、そうこうして、交渉なのか、単なる飲み会なのか、判別しがたい場も経ながら、わたしたちにもなんとなくIsさんの思いというものが、推定できるようになってきました。
・これまでも毎年の帰省の際に草刈りなどの手入れをしており、故郷への愛着心がひじょうに強い。つまり、その土地が第三者の手に渡ったとしても、自分たちの「還る」場所であって欲しい。
・ 仏壇や遺品が、廃屋内に残っており、整理していない状態にあるため、ふんぎれないところがあるようだ。
※ご仏壇についても、引き継いで欲しいといったニュアンスの発言もありました。
・ 畏敬しているご尊父が苦労して建てられた家屋にことさら強い思い入れがある。つまり、いまの廃屋を手直して住んで欲しいと願っている節がある。
ということが見えてきました。
ビジネス的な進め方とは真逆です。となると「人間としてとことんつきあって、こいつになら、という信頼感と納得感を得る」ことがもっとも大事になります。
もっとも、このペースでは、いつまで経っても先には進まないという危惧も生じてきていました。
この交渉の果実は、時期になっても、熟して落ちるもののではなく、そのまま枝にくっついて腐ってしまうものかも知れません。そうであれば、わたしたちが、その実をいいかたちで落としてあげることが必要です。
外堀りを埋める、のです。
10月10日(土) 移動<マイカー> 横浜自宅⇒秋田市実家
10月11日(日) 秋田市⇒三種町
10月12日(祝) 三種町⇒栃木・佐野
10月13日(火) 佐野⇒自宅
詳細スケジュール
169区画の境界線の確認などで、頃合をみて三種に行くつもりでいました。それをIsさんにお話ししますと、したら一緒に帰るべ、とおっしゃってくれました。4回目の折衝のときです。
9月のシルバーウィークに一緒に帰るべ、井戸や水路のありかや、畑や山も案内するし、近所の知り合いもみんな紹介してあげるわ、と云われます。お断りする理由などありません。
ところが、直前になってIsさんが体調を崩され、急遽、キャンセル。
そこで、日程を再調整し、まずはわたしたち夫婦だけでショートタームで訪問してみることにしました。
目的は、大きく3つ。
1) 集落のみなさんへの挨拶とともに、169区画と隣地(168区画)の境界線を確認する。
2) 170区画の廃屋内の状況調査
3) 廃屋内にあるご仏壇の扱いについて、菩提寺の住職に相談
境界線については、隣地のKkさんの立会いもお願いしましたが、松の木や杭などで一見して明確でした。結果論ですが、機を逃さずに契約した判断は、すくなくとも愚かではなかったわけで安心しました。幸先良し。
サクラバ設計と藤田工務店による廃屋の調査は、再利用は不可能で「解体するしかなかろう」というものでした。
部分的にでも再用できるものであれば、Isさんも得心し、また、それが経費の抑制につながれば、わたしたちにとってもメリットがあったのですが、まずは「無理だ、という事実」をきちんと押さえることが大事です。
床抜け、基礎部の無筋、屋根の塩害劣化による全面葺き替えが必要で、住居としてはおろか、小屋としての利用も困難。もしどうしてもやれとなれば、新築並みの費用がかかるという見立てで、いっそ解体がよろしい、ということです。わたしたちにとっては、その事実をうけとめるだけです。
なお、土地・家屋の立入りにあたっては、Isさんの立会いが得られないため、事前にかんたんな「許可証」をいただいていきました。実際に提示することはありませんでしたが・・・。
短い秋田訪問後、Isさんにその概況を伝えました。仏壇や廃屋内遺品の整理・処分は合意できましたが、家屋の再利用については、相当の思い入れがあるようです。ぜったいに住めるはずだと平行線をたどったままで終わりました。
こういうときは、なにか正しいか、正しくないかではありません。どうやって鞘におさめるか、という戦略なり、戦術が大事になります。
今度こそ三種町にご一緒しましょう、と持ちかけました。現場で現物を前にして話すのがいちばんです。そして、家屋をどうこうするも、わたしたちに一任するという気持ちになっていただくことしかありません。
10月31日(土) 移動<マイカー> 横浜自宅⇒三種町
11月 1日(日) 近隣挨拶等
11月 2日(月) 三種町・開墾準備
11月 3日(祝) 三種町・開墾準備
11月 4日(水) 三種町・開墾準備
11月 5日(木) 三種町・開墾準備
11月 6日(金) 三種町・あとかたづけ
11月 7日(土) 藤里町
11月 8日(日) 大潟村⇒自宅
※Isさん一家は、11月3日(祝)〜11月7日(土)まで合流
詳細スケジュール
昨春からの定住準備で、秋田を訪問すること7たびとなりました。
今回の工程は、
1) 169・170区画の下草刈り
2) 170区画廃屋内の不要品の整理と廃棄
3) ご仏壇の閉眼供養、及び引き取り
4) 土地利用のラフスケッチ
5) 仮住まい場所探し
6) 藤里町・金ちゃん濃情の農法研修
となります。
ただ、もっとも重要なことは、Isさんご一家との合流によって、価格等の条件を含めて、ながい交渉にピリオドを打つことでした。
10数年前にご尊父が亡くなり、その後もしばらく遠戚の方が住んでいたという廃屋は、当時の生活のあとがそのままになっており、夥しい量の調度品などが残っています。荒れ放題で、草木も伸びた土地を、草払い機や剪定ノコで拓いていきますと、大量の廃タイヤや瓶缶類のゴミが出てきます。悪臭も漂ってきます。燃やせるものは燃やし、産業廃棄物として処分するものは引き取ってもらいました。数万円のレベルですが、その支払いはわたしの方で行いました。下草刈りに4日間、家屋内の整理には2日間を要しました。
菩提寺から住職が来られ、仏壇のお魂抜きをします。わたしども夫婦も末席に座らせていただきました。遺影に手を合わせますと、んだが、あんたがだがここさ棲むのが、わがったよ、棲みなさい、と呼びかけてくる声が聴こえたような気がしました。Isさんは、最後まで深くお祈りしていました。
住まなくなったご先祖の土地や家屋の整理は、やはり子孫が供養して行うべきです。
わたしたちは、そこを再興して、棲んでいくことで、かつての開墾者を畏敬していきます。血のつながりはないものの、それがリスペクトの証です。
家屋内の品々の整理や処分は、基本的にはIsさんに先導いただき、こちらは手伝う側に回りました。Isさんは、しばし独り言を繰り返しながら、黙々と作業を進めています。その作業自体が、祈りであり、儀式であるかのようにも映ります。
Isさんの土地や家屋への思い入れを考えますと、やはり、こうして整理・処分という過程を経ることが必要だったのではないかと思えます。
宿に戻り、食堂でわたしとIsさんとで二人きりになるタイミングを掴んで、そろそろ最後の決断をいただけないものか、と談判しました。もし、こちらが提示した価格等に不満があるのならば、はっきりそちらの条件も言って欲しいことも言い添えました。
結果は、当初の条件どおりで了承する、家屋の扱いも任せる、というものでした。即答でした。
その回答は、わたしたちにとって喜ばしいことでしたが、今回の一連の行為は、結局はIsさんにとっても、大きな前進であった筈だとわたしは思っています。
わたしたちからの話しがなければ、そして、わたしたちの行動がなければ、いつまでもふんぎりがつかず、この土地は荒れたままで、ゴミ溜めに化します。家も未整理のままに幽霊屋敷のようになっていきます。それでは、ご先祖にとっても、Isさん本人にも、縁戚のみなさんにも不幸です。
Isさんにとっても、いずれはやらなければならなかったことです。いくばくかの心残りはあるのかも知れませんが、早晩、本心からこれでよかったのだ、と納得いただける日が来るのではないか、と云うのはわたしの傲慢でしょうか。
在郷の土地を得るための一連の活動によって、不動産という財産について考えさせられました。
土地を所有することは、それを私する、というものではなく、自分たちが息づく中心の場所を地球からお預かりする、という感覚です。ですから、169・170区画の土地に関しては、Itさん・Isさんが預かっておられたものを、一旦、お返ししたのち、あらためてわたしたちが預かることになった、という風に考えています。
169・170区画それぞれの譲渡に関わる経緯の違いは以上のとおりですが、それはわたしたちの定住後のItさんとIsさんとのおつきあいの距離感にも、密接に関係してきそうです。
手離れの鮮やかであったItさんは、さらりと立ち寄ってくれそうです。
くねくね道を進んできたIsさんは、きっとわが家であるかのように訪ねてきてくれるはずです。煙草をプカプカ吸い、JINRO持参で晩酌を重ね、気の向くまま数泊していくことでしょう。
もちろんウェルカムです。
わたしが所有することになった土地に、かつての住民がわがもの顔で入り込んでくる、というような不快感はありません。いま現在、この土地を地球から預かっているわたしどものところに、かつて預かっていたIsさんが訪ねてくる、そういうことなのです。
Isさんは、わたしよりひとまわり上の年代です。小さな、鉄骨屋と言いますか、解体業の会社を興した職人かたぎの方ですから、企業人のわたしとは住む世界も随分違うように思われます。
そのふたりが、あるいはふた家族が、かたやルーツとなり、こなた定住の土地探しで魅了された、この土地を巡って、ここまでの関係になったわけです。
考えて不思議な縁(えにし)です。これも不動産という財産がもつ力なのかも知れません。
長年、放置された土地は、草茫々の荒地となっていました。とくに169区画は、蔦や笹竹がはびこり、立ち入りすらできない状態です。このままでは地形も定かではなく、土地利用の構想もたてられません。この事態のままで来春までを過ごすことは避けたいと考えていました。
そのためには、人手を入れて、下草をいっせいに刈り込む必要があります。
いまは機械化の時代ですから、重機を入れて、があーとやればおしまいです。ただ、それでは再生ではなく、破壊です。ひとつひとつを見ながら、残せるものは残し、再生できるものは再生を図っていきたいものです。そのためには人手でやるしかありません。雪の前にやってしまえば、来春の芽吹きの季節までは拓かれたままになります。これが11月の訪秋のメイン作業になりました。
NPO一里塚でも、わたしの考えに賛同いただき、6名のメンバーが待機くださいましたが、その初日は雨にたたられ、あえなく中止。
翌朝から、ときおり振りしきる雨雪の合間を縫って開墾作業を進めることになりました。
下草の刈り込みに関して、NPOでは6名のメンバーと6台の刈払い機を投入すれば、一日がかりで終わるだろうという観測があったように見えます。ですから、初日に中止した段階で再集結が困難な状況でした。
従って、開墾作業は、わたしども夫婦とOsさんという女性の3名でスタートすることになりました。OSさんのことは、後の章で触れます。
この日の午後からはNPOのYkさんが合流し、以降、最後までずっとつきあってくださいました。天候の回復につれ、3・4日目には続々と助っ人が増え、ほんとうにありがたい思いでした。おかげさまで169・170区画の土地が、すっと見渡せるようになったのです。
地べたにからまる蔦と、背後の山をも席巻した笹竹との闘いでした。下草刈りといった、生易しいものではありません。6名を投入できていたとしても、一日で終わる代物ではなかったでしょう。まさしく開墾。
人里の土地が、10数年の間でここまで山化するのです。自然の力は凄いものです。そして、それを拓いていく人間の力も、また素晴らしいものです。
今になって思いますと、雨雪のなかを3-4名の少数で、じわりじわりと切り拓いたことは、わたしたち夫婦にとって、貴重な経験であり、思い出です。
自分たちの棲む土地を、自分たちの手で拓く、これは現在の日本にあって、なかなか得難いことです。もし、初日から天候に恵まれて、NPOのメンバー主体で動いていたならば、わたしたちのなかで、これほどの主体感・充足感は生まれなかったでしょう。
開墾も4日目に入ると、雲ひとつない晴天に恵まれました。
いやー、すまんすまん、なかなか都合がつかなくて、きょうになったよ、とNPOのKdさんが軽トラに刈払い機を乗せて駆けつけてくださいました。ありがとうございます、でも、きょうはもうあとかたづけだけです、としばらく雑談にふけました。近所のおばさんや散歩のご夫婦も声をかけてきます。昨日までは荒天で外出もままならず、数日ぶりに出かけてみたら、いつもの散歩コースの荒地がすっかり拓けているのでビックリしたようです。
173区画のKkさん宅のおばあさんが、愛犬のもみじを連れて寄ってくださいました。あんだだち、よぐがんばったね、たいしたもんだぁ、と赤飯を炊いてもってきてくれました。漬物や採れたての野菜もどっさりいただきました。
近隣のみなさんには、訪問の都度、あいさつしておりましたが、都会モンが、田舎暮らしに憧れて、金の力でこの土地を整地し、浮かれ気分で住むつもりなのではないか、という空気を感じないわけではありませんでした。
その都会モンの夫婦が、荒天のなかを、野良着姿で鋸や鎌を片手に、あるいは刈払い機を操って奮闘しているのです。その様子を、ちゃんと観て、あの夫婦は本気だ、と言い合ってくれたようです。
まずは入口のところに過ぎませんが、集落の一員に、認めていただいたようで嬉しかったです。
Ksさんが、一昨日に引き続いてひょっこり顔を出してくれました。
彼も縁もゆかりもない角館の町で、新しい人生の道を拓こうとしているチャンレンジャです。わたしたちの定住の準備が少しずつ進んでいることを、わがことのように喜んでくれるので嬉しい限りです。
小春日和のなか、柿狩りに興じました。
鬱蒼とした竹藪が開かれ、十年ぶりに柿の木があらわになりました。ひさかたに人間にもぎとられる柿は渋ですが、良いかたちと色合いをしています。焼酎につけて良し、皮を剥いて干し柿にして良し。
Isさんが、枝から実のとりかたを伝授します。
Isさんご一家、わたしたち、Ksさん、Osさん。それぞれ10歳ほどの世代差があります。それが柿を取り囲んで、みな、歓声をあげているのです。
ほんの数日間の、開墾の真似事のような行為ですが、それでもわたしたちに、田舎で暮らしていけそうだな、というすこし自信のようなものをつけてくれたのでした。
土地は決まったとしても、住居がないと暮らせません。170区画の廃屋は、解体の方向ですから、仮の場所にするにも無理があります。どこか適当な仮住居を探す必要があります。
168区画のKkさんのお宅が空家になっています。ここを貸していただければ、ないしろお隣ですから、ロケーションとしては最高です。Kkさんご夫妻には、訪問の機会をみて、挨拶をしておりましたが、いまは土地・家屋ともに息子さんに相続されたようで、こちらとの交渉が必要となります。
三種町を訪れる都度、ハニーという洋菓子屋でおやつやお土産のはちみつを購入していました。ご主人が養蜂し、ご子息がそのはちみつを使って洋菓子を作っています。
ひょんなきっかけで、このご主人・MnさんがKkさんと懇意であることを知り、相談して見ることにしました。
古い家だが、2年ほど前までは人が住んでいたわけで、仮住まいなら住めないことはないだろう。息子さんは、あの土地を手離す気はないようだが、仮の場所として貸すことに支障はない筈だ。ということでした。
そして、なんだったら自分が仲介してあげようか、と申し出てくださいました。
その好意に甘えて折衝していただきましたら、まずは現地を見てほしい、ということになり、Kkさん、Mnさん立合いのもと、空家に上がらせていただきました。
・ 上水は引き込まれておらず、井戸水
・ 下水設備はなく、トイレはいわゆるドッポン便所
・ 畳の一部がはがされている
・ 二階には、荷物が置かれている
・ 壁に断熱材等の処理はない
という状態でした。
あまり良い住環境でないことで構わなければ、お貸しするが・・・というコメントです。
後日の回答として時間をいただき、夫婦間で話し合ってみた結果、
・ 仮住まいにこだわって、右往左往するよりは、貸していただけることを優先すべき
・ 2年ほど空いているので、水廻りを中心にして、ほんとうに生活に支障がないか、事前にチェックする必要がある
・ この建物で冬越しをすることは避けたい。2011年夏に竣工予定としていた住居の全体工期を前倒しできるか、が条件。
ということになりました。
つまり、サクラバ設計との再調整が要となります。
サクラバ設計さんに、拓けた土地にお越しいただき、急遽の意識合わせをお願いしました。仮住まいの家を含めて現地をみてもらい、2011年夏竣工で考えていた建物を、来年中に住めるように工期の前倒しをできないものか相談したところ、来春よりスタートする予定であったデザイニング等の委託を、速やかに始動していくこととしました。
その日の午後の打合せをリスケジュールしてくださり、設計事務所での2時間ほどの打合せを実施。いまからスタートを切れば、来年5月末までに平面・立面の設計を終え、9月までに建築確認申請を行い、年内には竣工して引越しできる、という大まかなスケジュールにすることができました。
そのためのいくつかの条件や、契約の進め方をレクチャしてくれ、まずは平面図を検討していくため、わたしたちの要望事項を洗い出して、別途送付することにしました。
限られた資金のなかで、注文の多い顧客となりそうですが、なにとぞよろしく、とさせていただいています。
予算や技術面、あるいは建築基準法等、規制の問題などで、住宅の設計・建設にも、さまざまに紆余曲折があることでしょう。
それでも、土地が決めれば、いろいろなことが連鎖して動き始める。それがいよいよ現実のものになってきたわけです。
さて、なんどか登場したOs嬢のことに触れます。
彼女はそもそも静岡の人です。いろいろな事情があって、生活の基盤を失い、流浪するかのようにして、兄夫婦を頼って秋田にやってきました。兄の知り合いつながりで、NPO一里塚が、彼女の自立をサポートすることになり、わたしたちとも出会ったことになります。
引きこもりのことや父親が介護の末に亡くなったこと、その後、家を出ることになり、ネットカフェ難民なども経験したこと。本人から断片的な出来事をいくつか聴きました。ただ、その背景になにがあったかという、深いところまでは話したがりませんし、わたしたちが敢えてほじくり返すようなことでもありません。
会って驚いたのは、素直で明るい若者なのです。陰が感じられず、どこいでもいる、しかもなかなか頭の切れるお嬢さんなのです。ただ、就業への意欲はあるものの、肝心な一歩が踏み出せないでいるようです。その一歩さえ、踏み込んでみることができれば、周囲の力をかりながらもどんどん世界が開けていくのでしょうに、自分自身で強くブレーキをかけてしまうところが見受けられます。なにかトラウマのようなものが働いているようです。本人も気づいていないのかも知れませんが・・・。
弱いところも強いところも、あるいは有能でも愚劣であっても、いまある自分を、透明な目でみつめてみて、そのすべてを受けれる、という勇気を持つことですね。
わたしたちとIsさんとの珍道中にあって、Osさんのクッション役としての存在には本当に助けられました。藪地の開墾に、黙々と取り組む姿もけなげでした。
すこし時間はかかるかも知れませんが、彼女はきっとできると信じています。そうなった彼女と再会できることを楽しみにしています。
第7回秋田訪問の最終日、一足先に帰京されたIsさんご一家と別れてから、わたしたち夫婦とOsさんとで、藤里・森のかぞくの小坂さんを訪ね、連れ添って「金ちゃん濃情」にうかがいました。
金野さんにお会いするのは3回目となります。いままでは、ただ見学する程度のものでしたが、今回は果樹や野菜づくりの基本的な姿勢を学んでみたいと考えていました。
わたしたちの土地は、数日間の開墾で、蔦や笹竹をとりあえずは刈り込むことまでできました。
ただ、このままでは来春以降、またいっせいに竹や雑草の芽吹きをむかえることになります。やはり、一度はユンボで土を起す必要があり、それに前後して、松などの伐採や廃屋の解体が生じます。そして、農園の基礎となる土づくりもスタートすることになります。
その土づくりをどうやっていけば良いでしょうか・・・。
そのとき、金ちゃん濃情の風情が思い出されたのです。理想に近いイメージの風景がそこにあります。そして、金野さんの栽培姿勢に、哲学性が感じられるのです。
・・・ああいう農園を拓いてみたい。
わたしは、なるべく不耕起に近い自然農法で、農園を拓いていきたいと想っています。ところが、不耕起で野菜をつくっている方の絶対数は一握りであり、また、不耕起とひとことで言っても、人それぞれのやりかたがあります。土地々々の土壌によって、その土地ごとのやりかたがある筈です。どういうところで人の手をかけて、どういうところを自然の力に委ねるものなのでしょうか。
濃情では、さっそくレクチャいただきました。
驚きましたのは、金野さんがわたしたちのために、秘伝書とも言える手書きの資料をご用意してくれていたことです。ありがたいことです。感激して、妻は思わず涙をながしていました。
・雑草と野菜〜山菜との助け合い栽培方法
・数種の果樹や野菜、山菜、雑穀の育て方
・殺菌や殺虫剤、除草剤について
という構成で、懇切丁寧にポイントが要領よくまとまっています。
金野さんは、基本的には畝づくりもせず、雑草とのほど良いバランスのなかで、ベリー類や野菜を育てています。しかし、ときに必要悪として除草剤も使用するのだそうです。雑草たちを追い出しはしないが、好き放題にはさせない、そういう考えでしょうか。
これが絶対だ、という正解はないのだと言います。土や果樹や野菜を観察して、かれらの声なきメッセージを聞き取ることからはじめるのです。好奇心と洞察力というアンテナをたてて、研究しながら、失敗を敢えて恐れもせず、試行錯誤を繰り返しながら、しかし前に進んでこられました。そして、その経験やノウハウを、いまこうして惜しみなくわたしたちのような者にまで、分け与えているのです。
そこに、野菜や果樹づくりというレベルを超えた共鳴を覚えます。金野さんが育てるベリーには、だから金野さんの人生の味がつまっているのです。
宿泊については、6月に引き続いて大潟村の農家民宿「さくら・イン」を利用しました。二世帯住宅の半分を、素泊まりをベースとして開放しているものです。
看板もありませんので、ホテルビジネスのようなサービスはもとより、いまどきの民宿とも一味違います。
キッチンを自由に使えますので、Isさんご一家とOsさん同宿で6名の臨時所帯となり、連日、鍋物をつついて温まりました。
その宿泊費については、“秋田暮らしお試し事業”で補填してもらいました。
移住の準備で、都市部と秋田を行き来する費用もバカになりませんので、こういう制度は助かります。
秋田暮らしお試し事業とは、市町村が指定した空き家・公共施設・農家民宿等で1〜2週間自炊生活をし、地域との交流を実体験することを趣旨として、滞在施設の賃借料・光熱水料・寝具・食器の借用料について、一世帯あたり5万円を限度に県が助成する制度です。
さくら・インは、その指定民宿となっています。
滞在施設までの交通費や生活費は自己負担です。
現在は、一世帯あたり1回限りですが、複数回を可能とし、交通費の一部でも補助していただくようになれば、また、1週間以内の利用も可能となれば、かなり利用しやすい制度になるのではないでしょうか。あるいは、実際に住民票を異動させた時点で、過去の行動費の一部を補填する「成果型」も考えられます。
使い易い仕組みにすれば、正しく利用されているのか、というチェックをきちんと働かせていかなければならないでしょうし、厳しい財政のなかでの運用という苦しさもあると思いますが、本気で秋田への移住を考えている層が、助かるなぁ、と思える施策へ是非、発展させて欲しいものです。
そのように改善の余地も多々ありそうですが、まずはありがたく利用させていただきました。
県の雇用労働政策課のAhさんには、本制度の利用に関して、たいへんお世話になりました。
横浜に戻り、夫婦で、新居への希望をブレインストーミングしてみました。サクラバ設計へわたしたちの建物への要望をとりまとめて提示するためです。
夫婦で理想の棲家をイメージすることは、この定住物語のなかでも、もっとも至福なときなのかも知れません。
妻は、以前より気に入った家のたたずまいの写真や記事をスクラップしていましたが、それが現実のものになってきたのですから、たまりません。足の踏み場もないほどに、それらの切り取りを部屋中にひろげ、果てはダンボールで模型なども造りはじめて、すっかり建築デザイナー気分に浸っています。
いずれは、なんらかのかたちで現実にものに収束していくにせよ、こういうひとときを味わうことで、あの開墾の疲れも吹っ飛んでしまうのでした。
設計事務所に提示したわたしたちの要望資料(PDF形式)
わたしの方では、もう少し広い全体像、すなわち土地の利用計画ですとか、開墾手順といったものを考えていました。
住居、納屋、燻製小屋、山羊舎、鶏舎、搾乳小屋、採草場、畑、焼却炉などを、どのように配置するのか。それをいつのタイミングで始めることが現実的か。そのための全体線表は、どのようにすれば良いか、そして資金をどう考えれば良いのか、ということです。
これはシステムの概略設計に似た行為です。そして、こういう線表を構想して、ああでもない、こうでもないと、あれこれ練るときが、わたしにとっての至福なのです。
今年の元旦に開いた家族会議の資料を、久々にめくってみました。
そうしますと、これまでの活動が、ほぼ計画どおりに進んでいることに気づき、すこし驚きました。実際に活動している最中は、その都度々々の出来事をひとつひとつクリアすることに集中するため、大枠での進捗等を俯瞰することが難しくなるものです。
移住の全体事業を、登山になぞらえるならば、いまは二合目といった程度でしょうか。
かつて、平地から青い山並みを遠望し、大きなマイルストーンを定めました。
ことしは「終の棲家となる土地を定める」ことを目標に定め、一歩々々、足を進めてきました。ふと歩みをとめて、来た道をふりかえってみると、目論見どおりのほぼ二合目にたっていることを発見しました。
汗を拭きながら、風に吹かれてみる眺望は、なかなかのものですね。
しばし愛でて、また歩いていくことでしょう。
結局、170区画の土地に関する所有権移転契約は、11月20日にとりおこないました。残されていた廃屋についても、所有名義を変更することにしました。壊すことを前提とした空家の所有をかえ、むざむざ取得税を払うことに抵抗はありましたが、やはりこういうことには、法的にも万全を期すべきと考えました。これで、ひと安心です。
そして、この契約締結のタイミングを以って、わたしたちの定住準備は、土地探しから土地利用のフェーズに移行したということになります。
土地利用とは、すなわち、
・家屋、菜園、山羊飼養などの利用のおおまかな区画割り構想
・移住後の整地や開墾などの手順・スケジュール
・家屋の仕様の具体化
・引越を含めて、仮住まいに住居を構えるまでの仔細な段取り
・全体の予算感
などのこと。
土地さえ決まれば、さまざまなことが一斉に動き出すと思っていました。そのとおりでした。
つまり、土地の契約を終えても一息つく暇(いとま)もなく、次なる課題が行列をなしてやってきたのです。
家造りについては、従前よりサクラバ設計とのパートナリングを考えていましたので、正式に設計委託の契約も交わして進めることにしました。
明年12月の竣工を目標にしています。わたしたちは神経質だとは思っていませんが、住家は、やはり暮らしの起点になるところですから、強いこだわりが生じてきます。そうこう逆算すると、意外に時間がありません。
住まいの構想は、正解のないパズル。いくら時間があっても、きりがありません。そこに、専門家がひかえているのは、心強いものです。
問題は、菜園や山羊飼養に関わることで、わたしたちに経験もなく、確たる相談相手もおらず、となっています。従って、大枠の大枠だけ心積もりし、あとは「移住してから・・・」となります。
菜園については、藤里の金ちゃん濃情・金野さんを師匠に仰ぎたいと勝手に考えています。そうでなくとも、周りは農業のプロばかりですから、いやがようにも寄ってたかってご指導いただくことになることでしょう。インターネットアグリスクールで世話役をしていただいた農業研修センタの加賀谷さんのところにも、顔を出してみたいと思っています。
山羊については、田沢湖のHkさんや長野のたんぽぽ堂の伝を大事にしていきたいものです。秋田でも、存外に少頭飼いの愛好者がいるのではないか、とも期待しています。桧山・星場台で民宿を経営している野村さんもそのおひとりです。
いずれ、いまの環境下であがいても、できないことはできません。移住後の楽しみにとっておくことでしょう。
移住して、最初にすることは、土地の整地・整理です。
廃屋を解体し、土地のあちこちに残存しているコンクリートの基礎土台を撤去し、笹たけの根を除去し、場合によっては土入れをして、整地する必要があります。果樹や庭木は、極力、切り倒したくありませんが、いずれ土地の利用計画に合わせて整理していくことになります。育ち過ぎた防風の松の木をどうするか、思案することにもなります。
その前に、引越があります。
もっていくもの、捨てるものを峻別し、引越業者に相見積りをとって、手配しなければなりません。
家庭電化製品には、ずいぶん使い古いしたものが多いので、それは廃棄し、夫婦ふたりの生活スタイルに合うものに買い換える予定です。家具には愛着がありますから、捨てるわけにはいきません。ただ、この機会にリフォームをかけてあげたいものです。
仮住まい場所の整理もあります。2年間、空家の状態でしたので、事前に電気を入れて、井戸ポンプの作動などをチェックし、引越後、速やかに住めるかたちにしておく必要があります。プロパンガス、しかりです。
長女は、来春の結婚を前提として、既にマンションを購入し、別に住んでいますが、長男と二女には、自分たちの住処への引越が待ち構えています。
こうして、やりたいこととやらなければならないことを背負ったままに、2009年はふけていきます。
土地が決まって、さまざまなことが一斉に動き始め、一息つく暇もなく、課題が次から次へと行列をなしてやってきました。
あたふた、として・・・・・、これを嬉しい悲鳴、というのでしょうか。