道しるべ・トップ/あらすじ |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
■ 都会での準備篇 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter0. としのはじめの家族会議 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter1. プロローグ |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter2. 2008年のできごと |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
2-1. はじめの一歩(家族会議を開く) |
2-2. まずは秋田に行ってみよう |
2-2-1. NPOで情報を得る |
2-2-2. 旅行気分(訪秋第1回目) |
2-2-3. 成果 |
2-3. モチベーションを維持には |
2-4. 恐怖心 |
2-5. もういちど三種(訪秋第2回目) |
2-5-1. 道しるべ |
2-5-2. 三種への再訪 |
2-6. はじめに言葉ありき |
2-7. 都内でのパイプづくり |
2-8. 山間の佇まい(訪秋第3回目) |
2-9. ふるさと会に招かれる |
2-10. Hdさんと会う |
2-11. 深海の使者の伝言 |
2-12. 原点に戻って考える |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter3. 2009年のできごと |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Appendix1.笹村あいらんど視察 |
Appendix2.たんぽぽ堂視察の記 |
Appendix3.すれ違いは埋まるのか |
Appendix4.田舎の土地の探し方 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
■ 移住開始篇 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
Chapter4. 2010年のできごと |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
2008年からいよいよ具体的な準備に動き始めます。2008年のできごと篇では、手探りながらも、いろいろな人や情報に巡りあい、また、自問自答を続けていくなかで、徐々にわたしたちが本当にやりたいことのアウトラインが見えてくるようになった過程やきっかけを振り返ってみます。
2008年のおもな活動
2008.02.18 第1回家族会議
2008.03.13 NPOふるさと回帰支援センタを訪問
2008.3.16-3.22 第1回秋田訪問
2008.04.02 現代農業の定期購読申込み
2008.04.11 第2回家族会議
2008.04.30 秋田県インターネットアグリスクール申込み
2008.05.21-5.25 第2回秋田訪問
2008.06.03 NPOふるさと回帰支援センタ機関誌の取材を受ける
2008.0917-09.25 第3回秋田訪問
2008.10.19 八竜ふるさと会に招かれる
2008.12.05 札幌で元マイクロワイナリー社長と面談
1. 身の丈でやる
2. 足るを知る
3. 回り道をする
わたしたちのこれからの生き方のコアに、この3つのコンセプトを据えようと思いました。
「足るを知り、ちいさくともこころゆたかに“凛”として生きる」
というスローガン(ポリシー)も建ててみました。
このコアコンセプトやポリシーの骨組みに、「食」、「共生」、そして「里山」といった、わたしたちのフォースクォーターのテーマを粘土づけしていくと、どういうフォルムになっていくでしょうか。そういう視点から、定住後の暮らしの姿をイメージしてみることにしました。
家族会議は、もちろん夫婦の定住のことを、家族で共有して話し合う場ですが、そのための資料を創りこむことは、わたし自身の気持ちや考えを咀嚼し、明晰にしていくプロセスにつながります。
旅行の楽しみは、旅行そのものよりも、夢を膨らませて計画するときにあると言います。
人生設計も然りで、あれこれやってみたいことを発想するのは、本当に面白いものです。快夢に耽るわけです。
ただ、もうひとつの醒めた目が、本当にやれるのか、どこまで実現の可能性のあるプランなのか、たとえこれをやれたとして生活していけるのか、とつぶやいてきます。そうしますと、とたんに不安になり、それまでわくわくしていた自分がこっけいにも見えてきます。
それでも、最初の計画書をあらためて眺めますと、概念的で具体性の乏しいところはやむを得ないとして、コンセプトやポリシーというイントロダクションはなかなかの力作に思えます。
反省すべきは、その一方でひじょうに結果をせいてしまったことです。
まず、退社する時期を、当時は2009.3で進めようとしていました。
そして、田舎に移住して、その一年後にはリストランテを開業する、そういう駆け足のようなスケジュールを打ち出しました。そのため移住後、設計から建設、開業手続き等の工程を隙間なく埋め込むことが必要になります。しかも会社員から飲食自営業への転換を、その合間に色鮮やかに行ってしまう、ということも前提です。
こうなった背景には、定住後の素浪人の状態、つまり身分もわからず、職業も収入もない、そういう期間を、極力回避したい、という萎縮した心理がうかがえます。
“回り道する”ことをコアコンセプトのひとつに掲げながら、実際のアクションプランでは最短距離を行こうとしたのです。結論がないのが、いやだったのだと思います。
「食」、「共生」、「里山」といったテーマから、いきなり「リストランテ」が、短絡的に浮かび上がってきています。リストランテの開業は、わたしたちが目標とする生活を実現できたあかつきの成果物、もしくは、そういう生活を実現する手段であるはずです。それを目標にすり違えてしまったことが、ほんとうになすべき思考の回路を切り離してしまい、わたしたち自分に、そしてそれから相談をかける方々に先入観をもたらしました。その先入観が、自由闊達な思考をしばりつけ、大事なことにベールをかぶせてしまった気がします。
熟成の浅い酸っぱいワインですね。葡萄の質も、つくりかたもわるくはないと想いますが、味わいを出すには、やはりじっくり時間をかけることも必要ということなのでしょう。
最初の家族会議は2008.2.13に開きました。
こういう構想を抱いて、まずは秋田に行ってみるよ、それが趣旨でした。
■第1回家族会議資料-抜粋-(PDFファイル)
秋田のいずこかに終の棲家を探すにも、いざはじめようとしますと、とっかかりがありません。出身県ですから、だいたいの地理感はありますが、ガイドブック片手の観光旅行というわけにはいきません。
そこで銀座にあります“NPOふるさと回帰支援センタを訪ねてみました。このNPOの存在は、ウェブで調べて知っていましたが、実際に訪問するのは始めてです。3月13日のことでした。応対いただいた茂呂さんは、ひじょうにきめこまかいアドバイスをくださいました。わたしたちのプロフィールをかんたんにまとめた資料を携え、特定の場所を定めずに県を縦断し、役場などを廻って話しを聴いてみたい、という希望を伝えますと、いくつかの連絡先と担当者名を教えてくれました。その場で電話連絡をとって、つながりもつけてくださいました。
秋田と言えば、三種町が回帰運動に熱心で、その受け皿のNPOもあるので、是非寄ってごらんないさい、と薦められ、もしよければ、明後日にそのふるさと会の世話人がセンタに顔を出すので、また来てみたらいかがか、と誘われました。
市町村合併後の名前を言われてもピンと来ないのですね。パンフレットを見ますと、県北西部の八竜、山本、琴丘の3町村が合併した町とあります。いつか車で通り過ぎていたところだなあ、というくらいの感覚でした。ただ、せっかくのお話しです。なにかの縁かも知れませんので、15日には、ふるさとPR大使の畠山さんにもお逢いしました。
・グリーンツーリズム等の体験もしながらゆっくり進めていけば良いのではないか
・田舎には、開放されたコミュニティの場がない、そういう場づくりは面白い
・星場台という農家レストランがあり、どぶろく特区等、ユニークな活動をしている
・NPOの活動も三種町を皮切りにして盛んになっている
・一軒屋を賃貸するなら、2〜2.5万円/月程度である
・ホタルの棲める町づくりなどもしてみたいと考えている
・毎週火曜の午後は、銀座のNPOオフィスにいるので、いつでも気軽に相談してほしい
などと雑談をさせていただきました。なにぶん右も左もわからない状態でしたので、ずいぶん気も楽になり、翌早朝、秋田に向かったのでした。
3月16日(日) 移動<マイカー> 横浜自宅⇒秋田市実家
3月17日(月) 三種町 夕刻、秋田市で高校時代の親友と再会
3月18日(火) 由利本荘市
3月19日(水) 美郷町、横手市
3月20日(木) 美郷町、増田町
3月21日(金) 湯沢市、秋ノ宮
3月22日(土) 移動 帰浜
詳細スケジュール
1週間の秋田訪問で、北から南に、三種町・秋田市・由利本荘市・美郷町・横手市・増田町・湯沢市・秋ノ宮を訪れてみました。夫婦ふたりで旅行に出るのは、銀婚式以来ということもあり、観光や温泉巡りも兼ねながらのんびり廻った、というのが実態です。旅行という日常の環境を離れるなかで、将来に関して、話し合う時間をたっぷりとることも目的でした。
まず最初に訪ねたのは、NPOで勧められた 三種町です。
役場に着きますと、地域づくり課の伊藤課長補佐が待ち構えており、自己紹介をし合って、さっそく役場の車で町をご案内いただきました。途中で、地元のNPO一里塚の清水理事長と合流し、歓談しながら、町をガイドいただきました。空き家を巡り、桧山の農家レストランの経営者・野村さんの話しをうかがい、Uターン組の近藤ご夫妻ともお会いしました。半日に過ぎない滞在したが、めまぐるしい濃厚な歓待に感激しました。海沿いの町で、そのためか明るい開放感が印象に残りました。
その夕刻には秋田市に戻り、久々に高校時代の親友のKtに会いました。若いころに独立し、医療機器会社を立ち上げた苦労人で、相談しがいがあります。Ktの判断は「反対」です。リスクが大きくて、わたしの晩節を汚すことにもなりかねない、子会社へ斡旋などがあるなら、まずはそうして様子を見るべきだ、というものでした。人口の減少、外食業が成立するための住民の所得水準など、客観的な視点からの指摘でした。杯を傾け、再会を誓って別れました。
田舎への定住に関し、それからいろいろな方に意見をうかがう機会がありました。
どうにでもなる、ぜひおいでなさい、という方。
まぁ、どうにかなるでしょ、といわれる方。
そんな簡単なものではないぞ、勧められない、止めておけ、と忠告される方。
じつにさまざまです。わたしたちの言い回しや内容の微妙な違いも影響しているのでしょうが、それにしてもひとそれぞれ、さまざまな意見があるものです。
どなたも親身になって聞いてくれます。だから、すべて真摯に受け止めるべきものと想っています。
なにごとにも光があれば、影があります。光を語るか、影を見るかによって意見は正負に分かれます。ですから、賛否の結果を気にするのではなく、その内容や判断のよりどころとなるものをつぶさに聴いてみることが大事だと思っています。大切なことは、他所様に、もろ手をあげて賛同していただくことでも、反対を唱えるひとを説得することでもありません。当のわたしたち自身がほんとうに納得感を得て、覚悟をもって臨めるかということであることを忘れてはならないと思っています。
湧水の里・六郷を抱える 美郷町は、ひじょうに魅力を感じていたところです。神社仏閣が、町の規模にしては不思議なほどに多く、内陸のしっとりとした空気ともあいまって、品性があります。また、ここの役場も空き地・空き家情報などを提供してくれます。
町の剣道道場もたずねてもみました。いいですね。町の青少年と大人とが、竹刀を交えている姿は、社会の健全性の証しであるように見えました。
郊外に、ラ・カンパーニュというフランス料理店があります。シェフはホテルの料理長等を経験し、この湧水の町のたたずまいにほれ込んで、12年前に帰郷した田口さんという方。小さいながらも洒落たたたずまいで、調理レベルも高く、訪れたときもすべてのテーブルが埋まっていました。
伊勢志摩国際ホテル等で料理を修業された方が田舎に戻って経営するレストランと、私のようにITエンジニアとして会社生活を長く過ごした人間が、退社後に田舎で経営するリストランテの持ち味は、おのずとそれぞれ異なるものになるでしょう。それでは、わたしの場合の持ち味とはなになのか、ちょっと考え込んでしまいました。
由里本荘市で叔父宅を訪ね、最終日は夏いちごで有名な県南の秋ノ宮を巡って、福原愛ちゃんの卓球合宿場を離れに持つ温泉旅館でちょっと豪勢なひと晩を過ごし、日程を終えました。
準備も十分とは言えないまま臨みましたので、具体的な結果を得られたものではありませんでした。ただ、とりあえず行動してみたこと、そのものが成果であったと言えます。
わたし以上に妻にとって、この訪秋はインパクトがあったようです。わたしがNPOや役場のみなさんに説明する言葉を隣で聞きながら、ああこのひとはこういうことがやりたいのだなあ、という理解の深まりがありました。昼は、地元の方とわたしとが主に話す。それを聞いて妻が感じたところを、夜の宿で夫婦で話し合う。こういうサイクルはなかなか快適でした。
定住に関する活動は、わたしたちは極力、ふたり揃って行うようにしました。誰かの話しをうかがったり、秋田を訪問したりするのも、ひとりではなく、なるべくそろって行くようにしました。このことが、結局、自分ひとりでは気づかないことを、気づかせてくれる温床になりました。独断で袋小路に入るのを防いでくれたと思います。
盆暮れ以外の季節に訪問する機会はめったにありません。首都圏では、ぼちぼちサクラの話題になろうかという時期、内陸部はまだまだ雪が残っているんですね。想像にはかたくないのですが、雪に埋まった真っ白な田畑をじっさいに観るのは新鮮な光景でした。
1. “田舎で暮らす”というのはどういうものか、を肌感覚でとらまえられた。
2. 定住に関して、夫婦でじっくり話し合う機会がもてた。
3. 事前の段取りの大事さをあらためて痛感した。
⇒2009.4定住予定を2010.4に変更すべき。
4. 空き家があるから、棲みたい家がみつかるわけではない。情報量とフットワークが鍵。
5. 地元とのパイプ次第で、都会に居ながら、準備を進めていける事項が相応にある。
東京に戻って、まず会社には、満期となる2010.3まで勤めを継続する旨、報告しました。また、準備期間が1年から2年間に延長されたことに伴うプランの見直しを行いました。
準備期間が延びたことは、妻にとっては、かえって秋田への定住を現実のものとしてとらまえることになったそうです。
第2回目の家族会議も開きました。あらかたの訪秋結果と今後の予定を共有しました。
■第2回家族会議資料-抜粋-(PDFファイル)
さて、田舎への定住準備を、都会に居ながらして進めるうえで、ネックとなるものはいろいろあります。もっとも大きいのは、現地の情報をなかなか得られないことでしょう。それが遠因ともなり、田舎住まいへの志が徐々にしぼんでしまうこともあり得ます。ちょくちょく候補地に出かけられれば良いのですが、そうも行きません。これだけ交通が発達した世でも、日本の田舎は、ときに海外よりも遠いのです。
第1回目の訪秋を終えて、数週間も経つと日常のいそがしさにも埋没して、すっかり遠い日の出来事のように思えるようになりました。これはまずいですね。いつもアンテナをたててモチベーションを維持していかないと、せっかくすこし前に進めたものが、すぐにふりだしに戻ってしまいます。
そこで考えましたのが、 「秋田県インターネットアグリスクール」の受講です。また、月刊の現代農業を定期購読することにしました。農を生業(なりわい)とするつもりはありませんが、半農半店を志向する以上、農全般に関する知識を習得することは必要です。ただ、本音は、こうやって雑誌やテキストが、毎月々々、定点的に送られてくることで、わたしの気持ちにつねにさざなみをたてて酸素を供給し続けたいというところにありました。
アグリスクールでは、自分が資料を読み込んで、回答する、それが添削されてくる、というやりとりがあります。(わたしは参加できませんでしたが、)年数回の研修実習もあります。穴埋め問題ばかりでなく、自分の農に関する意見や考えを記述させる質問もあり、その回答にマン・ツー・マンで添削を返してくれます。わたしのビジネス構想をかいつまんで記載しましたところ、県の農家レストランの冊子を送ってくださいました。
5月から翌年2月までの期間で、これで農業の基礎知識が十分に備わるかとなりますと、ウェブを介在するがための限界値もありますが、大潟村の県研修センタが主宰し、卒業後もいろいろ相談に乗っていただける可能性を考えると、なかなか意義深いものであると思います。
現代農業も、雑誌名の印象から堅苦しい内容を想像していましたが、農の楽しさや不思議、あるいは可能性をしっかり取材しており、好奇心がくすぐられます。「食」にも密接していますので、わたしたちの日常生活にも参考になる記事があり、いまでも興味深く購読しております。
それまで空想のレベルであったものが、にわかに現実味を帯びてきたことで、希望や期待が高まるのと裏腹に、迷いや不安も生じてきました。先の見えない恐怖です。
4月中旬の深夜、札幌に住む友人のMtから電話がありました。
近況を交わし、そう言えば、先月、秋田に帰ったよ、そろそろアフターリタイアを考えないといけないのでね、と話しました。帰ってどうするの、何をするのか、と聞かれ、いままでとはちょっと違う道だよ、と応えたところ、ピンと来たようです。
Mtの先輩で、わたしも面識のあるHdさんという方がいます。
退職後に、ワイン工房を札幌郊外に開きました。そういう準備をしていたことを誰も知らず、誰もが驚きました。輸入した葡萄の果汁を、その工房で発酵させた手造りワイン、そういうコンセプトの店です。
しっかりした方でしたが、あわただしい開業にも見受けられました。
Mtの声が曇ります。
数ヶ月前、そのHdさんから電話をもらったのだそうです。Hdさんはしたたかに酔っていました。そして、運転資金がなくなった、とうめくように洩らしたのです。
Mtは、その電話を切りました。金策をアルコールの力を借りて吐く、その弱さが醜く、情けなかったのだと言います。HdさんはMtがもっとも尊敬している先輩でした。
その後、ワイン工房には行ってみたのか。
いや、ああいうことがあると、もう行けないよ、お客として毎月のように何本か購入するのは良いよ、でもね、借金は駄目だよ、何と言われても、それは駄目だよ、先輩・後輩も友情もそれで失くなってしまうじゃないか、そうだろう。
わかるよ、そのとおりだ。
と応えながら、胃の腑に苦い塊を飲み込んで、背筋がザワリと寒くなる思いがしました。
Hdさんは、夢を追いかけました。その夢に彼は破れようとしています。いや、もうとうに破れてしまっていたのかも知れません。
若者の敗北は、蘇生のプロローグです。敗れて、したたかに強くなれます。しかし、わたしたちの年齢になると違います。敗れた老兵は、ただ立ち去るしかないのです。
わたしも夢を追いかけようとしています。恐怖心が沸いてきます。
一度だけ、ワイン工房に顔を出したことがあります。
いやあ、思い切ってやっちゃったよ、とHdさんは穏やかに笑って話しかけてきました。奥さんも、騙されたようなもんね、と微笑んでいました。
夢をみるのはたやすいものですが、しかし、それを追いかけるとなると、累々の屍の転がりのなかを疾走しなければならないのでしょうか。
わたしの夢の果てに敗退があるのならば、潔く倒れ、後進に踏まれるむくろになろう。潔く倒れても友情を失うことだけは避けよう。
アルコールを一滴も入れていない夜でしたが、まるで泥酔したようなおぼろげの気分でつぶやいたのでした。
3月の訪秋は、わたしのなかに、前向きに進めていこうとする気持ちと恐怖心とを同時にもたらしました。アクセルとブレーキが一緒に踏まれたような奇妙な感覚です。
歩きはじめた道が、足元すらもおぼろげなほどに霧でかすむのであれば、道しるべを頼りに進むことでしょう。
3月にわずか半日余りの訪問で駆け抜けた三種町のことが、心に残っていました。風景や観光地、食べ物ではありません。町のたたずまいに惹かれたわけでもありません。わたしは、どちらかと言うと、山間の丘陵に囲まれたような土地が好きで、海辺の平坦な景色にありますと、隠れ場所を失った野うさぎのように落ち着かなくなるのです。
「人」ですね。あのときに逢った、人懐こくて、開放的な「人」が気になっているのだと思います。
だいたいが秋田県民はナイーブです。気心が知れてしまえば、あけすけなつきあいとなりますが、初対面からうち溶けることはなかなかありません。わたしが秋田市で、妻が五所川原市の出身と申しますと、一気に親近感が湧いてきますが、この町に棲もうかと思っている、というような話題になりますと、またとたんにバリアが張られます。ああ警戒されちゃったなあ、とわかります。
その点、三種は違いましたね。お会いした人たちがたまたまそうだったのか、それともその土地柄なのかは、よくわかりませんが、おいでなさい、と何度も言われました。Uターンの近藤さんご夫妻は、さすがに「ことは慎重に運びなさい」とアドバイスくださいましたが、ことにご主人は直売所ビジネスにすっかり燃えているように見受けられました。
気にかかったら、行動してみることです。4月15日、NPOの清水理事長あてメールで打診させていただきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こちらでは、ソメイヨシノもすっかり葉桜となり、新緑の季節を迎えようとしておりますが、皆様におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
さて、3月には漠然とした思いだけを抱いて訪問させていただいた中、いろいろとお世話になりまして、本当にありがとうございました。
この経験を得まして、いまはまず、大枠の大枠を決める時期にあるという認識をしております。そのためには、現地に行って、地元との方とお話しさせていただき、そして現場を観て感じることは、非常に大事なことと思っております。
次回は、7月のグリーンツーリズムに合せるつもりでしたが、少し前倒しし、来月下旬の再訪を考えております。
ふたたび、清水様、伊藤様とお逢いし、今度は少しゆっくりとご相談させていただく機会を賜れませんでしょうか。今のところ勝手乍ら5月22・23日に三種町にうかがう予定です。是非、予定をお聞かせください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今晩わo(^-^)o 今、風呂上がりました。
予定日、OKです 是非おいでください。候補地もできるだけ多く探しておきます。楽しみにしております。
今日は午前中韓国旅行の打合せ[10人〜県の国際線の利用アップの施策]を私の会館でやりました。
終わってから 地元特産のカニ初物を海に行って買ってきて、たらふく食べ、田舎暮らしの良さを心行くまで楽しみました
明日は県立大学生数人が教授と稲刈り体験やサンドクラフトの参加のためきます。今秋田は最高の季節です。
ところで今大変良い物件があります
300坪 の敷地に約40坪の平屋〜年数の割に良い、更に少し離れた場所に畑もあり駅から約五分です。金額は400万円です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
メールというのは便利なものです。すぐさま返信いただきました。清水さんの人柄も偲ばれます。
5月21日(水) 移動<航空機・レンタカー> 横浜自宅⇒秋田市実家
5月22日(木) 三種町
5月23日(金) 三種町
5月24日(土) 藤里町
5月25日(日) 能代市・設計事務所 移動、帰宅
詳細スケジュール
この訪問でも、役場の伊藤課長補佐から、そしてNPO一里塚の清水理事長から前回を上回る歓待を受けました。
・副町長との面談
・空地と空き家を3箇所
・Uターンして実家を改装し完全予約制のうどんすき屋を開業した「食の庭 いし川」
・Uターン・近藤さんの耕す畑
・Jターンで工房を営む杉山さん
・八竜幼稚園の三上園長
・山本中学校の剣道部と地域の世話人の新堀さん
・比内地鶏と無農薬米の吉田さん
・国重要文化財・大山家住宅
・わたり蟹の直売所
・NPO一里塚の週例会に陪席
・NPO会員の下条さん(Uターン)のご自宅
清水さんは、ビジネス界を勇退後、2006年2月にこのNPO一里塚を設立された方です。口から生まれてきた、と自負するだけありまして、いろいろなことを良くお話しされます。わたしより10歳ほど年配ですが、好奇心がいっぱいなアイデアマンです。人生の達人とお見受けしております。かたや、伊藤さんは実直で誠意の方です。こちらが恐縮してしまうほどに、ほんとうに丁寧に対応くださいます。おふたかたの献身的と言える好意に甘えて、精力的に廻りました。
妻は、吉田さんから比内地鶏の生みたての卵をいただいたときが、一番感激したようです。生卵をごはんにかけて食べますと、ほんとうに美味しい。滋味ですね。
わたしには、NPO定例会への参加が意義深いものでした。
わたしの行動規範は、個人や家族の利益、あるいは会社等組織の利益がベースとなっています。地域益ということはほとんど意識しないで暮らしていますので、NPOのみなさんの闊達な言動には、非常に新鮮な感動を覚えました。老若男女・職業の別なく、いろいろな個性が地域を愛するところで連結しています。清水さんの人柄によるところが大と思いますが、それに呼応して集結しているメンバーのひとりひとりが輝いていることが、何よりも素晴らしいと感じました。
この町の自然はさすがに豊富です。毎朝、郭公や雉、鶯、百舌、青地などのさえずりで、夢見心地に気持ちよく、目覚めるのでした。
三種の人の面白さは、逢う人逢う人ごとにかならずと言ってもよいほど、ここはないもないけどいいところだよ、とおっしゃることです。
役場の車で、伊藤さんから空き家の案内をいただいているときのこと、車窓から眺めた上空にミサゴが悠然と飛翔していました。いまやレッドデータブック(絶滅危惧種)に指定されている希少な海の鷹です。その精悍さにホレボレしました。
翌日、清水さんと蟹の直売所に行って、なおいっそう驚きました。小屋の壁に漁師さんが描いたミサゴの絵が張っています。とぎどきくるなぁ、これはさいきんかいだもんだぁ、とのこと。ミサゴにも驚きましたが、それを絵に表して漁師小屋に張っておく御仁こそ、天然記念物級です。
八竜幼稚園・三上園長邸のテラスにて、欅の葉をつたわって流れてくる風のここちよさは格別。
身近には、直売所などで安く入手できる、新鮮な野菜なども非常に贅沢に見えます。
都会という消費社会が、札束をどれほど積み上げても手に入れられないものが、ここにあります。なんにもない、ではなく、東京さ、ねぇものがなんでもあるべぇ、と誇ってよろしいのではないでしょうか。
藤里町は、白神山地の麓のまちです。自然の恩恵が溢れていますし、いわゆる里山の典型としての中山間部に足を運んでみたかったことから、寄ってみました。藤琴川にオオヨシキリの啼き声が響きわたっています。藤の花があちらこちらに自生しています。なるほど、藤里、ですね。
また、最終日には、能代の西方設計を訪問させていただきました。経費の過半数を占めるのが、土地や住居・店舗に関わる投資になるでしょうから、専門家の方と相談させていただくことは、今後も必須となると考えたからです。西方さんは、ご母堂の看病を機会に帰郷し、何の実績もないなか、設計事務所を開業された方です。やはり当時は先が見えなく恐怖だったそうです。励みもいただきました。
2回の訪秋で、秋田は身近に感じられようになってきました。
一方で、カルチャギャップと言いますか、わたしたちの思いをきちんと伝えきれないもどかしさも感じるようになりました、
いくところいくところでかならず、へぇ、それでこちらに来て、なにをなさる気でおられるのですか、と聴かれます。
はあ、畑で野菜を作って、地産地消をベースとした店舗兼用住宅の小さなレストランを開いてみたいんですよ、と応えます。
そうしますと、それならば国道沿いとか、高速のインターチェンジの出口や郊外のスーパーマーケットの傍などで開店するのが良いでしょうね、ですとか、住む場所と店とは少し離れていても商売しやすい場所にすべきでしょう、というご意見をいっせいにいただくことになります。なにも野菜を自分でつくる面倒は要らないよ、周りにいくらでもある、というアドバイスもいただきます。過疎化が進む地域で飲食業の経営はリスキーであって、やるなら秋田市内や比較的所得の高い大潟村あたりで考えるしかなかろう、という忠告もいただきます。
このやりとりで、わたしたちは言葉の接ぎ穂を失ったような感覚になります。ちょっと違うんだよなぁ、果てさてどうやってお話ししていこうかと戸惑います。
レストランを開業したい、となりますと、とたんにレストランがクローズアップされてしまいます。ところが、そうではないのです、わたしたちがやりたい本当のことはちょっと違うんです。それじゃ、レストランはもういいのですか。いやいや、レストランは開きたいと思っています。なんだ、結局、レストランをやるんですよね、それならば・・・・となります。レストランの暴走です。
田舎へ定住するにあたって、「どこに住んで、なにをやるか」というふたつはきわめて重要です。いずれかが軸になれば、ものごとはその軸を中心にして決まっていきます。ところが、Jターンして、起業する、わたしたちにはその軸がいずれも定まっていません。変数が複数ある方程式の解を得ようとしているわけです。
それならば、住む場所なり、店の仕様なりのどちらかをまず決めてしまえば良いではないか、ということになりますが、これがまたそうもいかないのです。Jターンし、起業する、ということは、このいずれからも束縛されず自由なのですが、情報や経験に乏しい分、“簡単に決めてしまえる”だけの材料が揃わないのです。
定住のきっかけとなるなにものかを見つけられずにいる、それがわたしたちの率直な状態であったと思います。
なぜ、リストランテを店舗兼用住宅という環境でやりたいのか、住や住で、業は業として区分けすることになぜ抵抗を感じるのか、あるいは、そこになぜ畑があって欲しいのか、そういう食材は地元の農家の方から仕入れることでは、なぜ駄目なのか、それが整理できずにいました。そして、そこになにか大事なメッセージが隠されているように思えました。
人間というのは、なにも決まらないで前に進まないと厭なものです。しかし、今年いっぱいは、なにも決めずにただただ観るだけに徹しよう、と心に決めました。
「リストランテ開業」だけが山の頂上で雲間から抜け出して見えます。そして、麓からの道筋がかすんでわからないままに右往左往しています。わたしたちが本当にやりたいことの真の目標や道程が分からないでいるうちは、焦ってなにかを決めたり、動いてしまうと、のちの後悔につながります。また、いずれは霧も晴れてくる予感もします。そうなってからでも、遅いことはありますまい。
すこし急ぎすぎているのかも知れないなあ、という自覚が出ていました。なにもしないで一年ほどブラブラと田舎に住んでみて、充電する時期があっても良いのかも知れないなぁ、そういう空白期があって然るべきで、急がば回れ、とはこういうときのことを指すのではないかとぼんやり考えはじめていました。
おりしも、そのころ大型システムの提案プロジェクトを1本受け持つことになりました。8月下旬締め切りまでは、多忙な毎日となります。
なにも進まず、なにも決まらない、それでも焦りは感じませんでした。じっくり構えようと思ったことで落ちついていましたし、アグリスクールなどが定点的に刺激を与えてくれます。
秋田に出向いて、いろいろ動き回るよりは、わたしたちの思考を一旦寝かせて、発酵させる、そういう時期にあたる気がしました。
秋田は、ときには海外よりも遠く感じる場所です。それだけに、首都圏で架け橋となっていただく方や機関との間に、線をつないでおくことは大切なことです。
わたしの場合は、NPOふるさと回帰支援センタの茂呂さんと三種町PR大使の畠山さんに、要所々々で連絡をさせていただいております。いつからいつまで秋田に行ってきます、秋田ではこんなことがありました、あるいは、このようなことを考えています、といった報告・連絡・相談をさせていただいています。メールや手紙、ときどき顔をだす、という感じでしょうか。
5月の訪秋の状況報告のため、6月上旬に銀座のセンタにうかがいましたところ、NPOの機関誌「100万人のふるさと」2008夏号の取材を受けました。Jターン志望のわたしが畠山さんに相談させていただいているシーンを密着レポートする、という企画です。
このようなおまけもいただきながら、情報のネットワークが間接的にでもつながっていくように心がけたいものです。
なによりも精神的な孤立感を避けることが大事である気がします。わたしの日常生活、それは会社内外でのビジネス中心の世界です。ここで田舎定住の同志に会うことはさすがにありません。もしかすると、どこかにいるのかも知れません。しかし、気づきません。そもそも、わたしがこういう準備をしていることもほとんど知られていませんし、知らせていません。そうなりますと、こういうことを考えたり、活動しているのは、ひょっとすると自分ひとりではないか、といった孤独を覚えることがあります。そして、常識に外れて非現実的なことをしているのではないか、という不安に陥ります。ところが、NPOの活動に一歩足を踏み入れてみると、おなじような価値観をもって、おなじように希望を抱いたり、迷ったりしている多くの仲間がいることが分かります。
誰しもが、先の見えない恐怖にすくんだり、足元がかすんで見えなかったり、自分の考えを整理できずにいたりすることがあります。かと思えば、理想に挑戦してみようと勢い発ったり、なにかうまくいきそうだとほくそ笑んだりもします。そういうなかで、仲間の息吹が感じられれば、励みになり、知恵も授かるのではないでしょうか。
個人でも、グループでも、是非こういう輪のなかに多くのメンバーが入ってもらうことを望みます。
9月18日(木) 移動<マイカー> 横浜自宅⇒秋田市実家
9月19日(金) 藤里町
9月20日(土) 藤里町
9月21日(日) 鯵ヶ沢町、五所川原実家
9月22日(月) 三種町
9月23日(火) 三種町
9月24日(水) 鶴岡市
9月25日(木) 帰宅
詳細スケジュール
第3回目の訪秋は、9月下旬の遅ればせながらの夏休みを利用し、わたしたちの帰省を兼ねて行うことになりました。
目的はふたつ。
ひとつは、藤里の町が気にかかっていましたので、Jターンの先達である小坂さんにお逢いしにいくこと。
もうひとつは、三種のNPO一里塚のメンバーのみなさんに、わたしたちがなにをしたいのかということを、わたしたちの口から説明してみることです。
わたしは「湧水」にはよわいです。山に降った雪が融け、地下水となり、十数年もかけて、湧き水となって地表に湧き出てくる、そういう物語を想像しますと、クラリとします。コンコンと水が湧く泉のある土地が空いているけれど、住んでみる気はあるかい、ともしもちかけられたら、そこが熊や狸しかお客に来ないような場所だとわかっていても、そうとう惹きつけられると思います。
横倉は、屈指の名水場です。藤里に着いてすぐ小坂さんにご案内いただきました。棚田やせり畑を左右に見る細い坂道を登ってほどなく、かなりの水量がほとばしっています。ひとくち飲みくだすと、白神の山の木霊が食道を伝わって、五臓六腑に染み入る気がします。
小坂さんは、「白神山地きみまち舎」という手づくり旅行社とグリーンツーリズムの体験型民宿「森のかぞく」を経営されています。生まれ育ちは、県南の西馬音内、その後、東京の出版社に勤め、病気静養をきっかけに、本荘、鷹巣、二ツ井、そして藤里へと移住しました。
藤里では、まさしく零からスターとしたわけですから、相当のご苦労があったと思われます。とくに古民家を再生させた民宿を、2004年2月に焼失してから、復興されるまでの辛艱(しんかん)はいかばかりでしょうか。さぞ気丈で逞しい女性に違いないと思っていました。
ところが、そういう予断は見事にはずされます。
白神の自然をよく知り、そのお裾分けをいただく感謝や謙虚さをもった、感受性の豊かな方です。知識が経験を経て知恵となり、学びの姿勢によって実をなす、そのように見受けられます。
わたしたちの計画の参考になればと、知り合いの方がやっている近くのベリー農園に連れて行ってくださいました。
「金ちゃん濃情」は、元役場職員の金野さんが開いたベリー園です。不耕起に近い畑のなかに、ブルーベリーや木いちごをはじめ、かぼちゃやとうもろこしなどが元気に育っています。もぎたてのベリーはなるほど美味ですね。これは、わたしたちも是非、栽培すべきと感じました。名刺をいただきました。裏面に7つの肩書きが羅列してあります。木いちご研究会会長予定にはじまり、最後に女性を恋いうる会会則係となります。なぜ、最後は会長ではなく、会則係なのですか、そりゃその会では、会則係がもっとも楽しいからよ。なるほど、このお方も人生の達人であるようです。
森のかぞくには2泊し、岳岱のブナ森のハイキングもしました。
広葉樹林、とくにブナ林は「明るい」のが特徴です。日光をひとりじめしない生態には、古代ローマや日本の多神教に似た寛容性を感じます。からだから毒素が抜けていくのがわかるような気がしました。
白神や藤里の町を案内いただきながら、あるいは夕食どきなどに、田舎で暮らす上での、ひととひととの距離感や密度ということも興味深くうかがいました。人生観や価値観の異なる者達が、田舎の一角でともに『暮らす』ということの意義とか意味。やはり、都会にはない難しさもあるようです。
藤里から五所川原への道は、釣瓶峠を越えて、岩木山麓を半周回するルートを辿りました。まだ、緑の深い中、川べりの岩肌のもみじが1本だけ、朝陽に照らされてくれないに浮かび上がっておりました。四季の移ろいにちいさな喜びをみいだす心情を、歳を重ねるごとに大事に思えるようになってくるようです。
五所川原には妻の実家がありますが、その前に鯵ヶ沢を経由し、“長谷川自然牧場”という農場を訪ねてみました。プロヴェンス夫妻の絵本、かえでがおか農場を彷彿させるような場所でした。
長谷川ご夫妻は、かつて葉たばこを栽培していましたが、ご主人が農薬で体調を崩され、小規模の養鶏を放し飼いで始められました。それがきっかけで、豚ややぎ、羊などを広大な敷地で育てるまでになりました。豚舎が臭くないのです。餌が良いので、そうなるそうです。
当日は、こどもたちの集いがあって、長谷川さんが、こどもたちを前にお話しておりました。『命をいただく』ということ。それが、豚や鶏が息づく農場という空間の中で、青い空や緑に囲まれて、ごく自然な言葉遣いやふるまいで行われていることに、食育の原点を見たような気がします。ひとりひとりのこどもたちの心に、素直に根づいていくのだろうね、という思いで、その光景を眺めておりました。農場の運営は、体温ある動物たちを扱うわけですから、わたしども旅行者がはためで見えるのどかさは、ごく皮相的なもので、いろいろなご苦労もあろうかと推察しますが、このような活動が、多方面に、あるいはいろいろな仲間を得て、他のエリアにも拡がっていくようになって欲しいものです。
三種町のNPO一里塚のメンバーのみなさんへの説明は、週例会の場を利用して行われました。清水さんから、このような定住を思い至った背景やいきさつについて、NPOメンバーの前で話してもらえないか、と事前にご要請をいただいてのものでした。
田舎に来たいこと、なにをやりたいかということは断片的に聞いたけれど、なぜそういうことを考えるに至ったのか、それを理解できればさらに協力できることもありそうなので、というありがたい配慮です。
問題は、当の本人が、いまだにそれをきちんとフォーカスできていないことです。どれだけお伝えできるものか、いささかこころもとなかったのですが、わたし自分の考えが整理されるきっかけになるかも知れないという期待も込めて、お話しさせていただきました。
その内容は、だいたいがプロローグの章で表したものに重なります。
さらには、現在抱えている不安などについても、正直に打ち明けてみました。
生活の基盤、生活の糧となる収入源をどう確保するか、ということや異環境での生活にほんとうに馴染めるのか、というリスク。
そういう覚悟が、本当にわたしたちにあるのか、ということをいつも自問自答しており、その覚悟ができました、とはまだ言い切れないが、あのときやっておけば…とのちのちに後悔することだけは、やはりやりたくない、ということ。
ひとつのいましめとして、ビジネスマンとしてのゴールテープは全力疾走で切りたいです。会社生活の先が見えたからと言って、ただときを座して待つ姿勢になることは決してしまい、と肝に命じており、いまできることに責任を持って全力を尽くすことで、明日にもつなげたい、というようなこと。
最初のころは、かなりキチンと計画だった定住プランを考えていたが、通うにつれて、まずは住んでみればいんでねがな、まずは住んでみで、それでなにをやるのか、なにができるのかに腰を据えて取り掛かる、そして1・2年ほどをかけて、歩ぎはじめる、それでいんでねべがなぁ、といまは想っている。
そのようなことをお話しさせていただきました。
メンバーの三浦さんが、こっちさくれば、くうことを心配することたぁない、どうにでもなる、それが里山というもんだ、とおっしゃいました。三浦さんは里山の鉄人です。勇気をもらいました。
いまさらことを焦るよりは、じっくり構えてみよう。田舎への定住が、わたしたちの集大成の場であるならば、まずは住んでみることから始めよう。いずれ、いままでの生き様が隠しようもなく出てくる。滲み出てくるものを信じて待てば良い。
やりたいことはなにか、を伝えることはかないませんでしたが、わたしたちの「思い」は汲みとっていただけたのではないかと想っています。
10月19日、東京八竜会が開催されました。三種は,前述のとおり八竜・山本・琴丘の3町村を合併した町ですが、ふるさと会についてはしばらく旧態で運用されています。翌年以降は、この会も統合されるようで、つまり八竜会としては最後になるということでした。
その数日前に、清水さんから電話をいただき、参加してみませんか、と言われました。妻は剣道の大会と重なりますので、わたしだけで出席させていただきます、と即答しました。役場やNPOのみなさんとのつきあう中で、いかにして多くの方と触れ合っておくかが、定住の成否を握るひとつになるだろうということが分かってきました。こういう機会があれば、望んで参加すべきです。
市ヶ谷の会館で行われたふるさと会は、まずは総会からはじまりました。三種町長をはじめとした行政、及びその関係者、NPO一里塚の代表メンバー、そして在京の有志によって、あいさつ・近況の報告から始まり、少子化対策をテーマとしたディスカッションが活発にされました。
この町では、学校の給食野菜を地産地消でまかなってきたのですが、学校統廃合に伴い、給食センタの統合も行われることから,立地条件等の制限が生じ、その維持が難しくなるそうです。地域のおかあさんたちがこどもたちのために発案して、運営してきたようですので、残念に思いました。
懇親会の場では、佐藤町長と雑談する機会にも恵まれました。気さくにざっくばらんに接していただきました。わたしが定住を考えている者であることは、事前に掌握しておられる感じでしたが、出身を聞かれて、秋田市ですと応えますと、なんで三種なのだろという表情を一瞬されました。
秋田市出身者の会があるのだろうかとふと思いました。母体がそこそこの規模になりますので、あったとしても、なかなかまとまった運営ができないのではないかと想います。また、東京に出てきた者をふるさと会に加入する、といった動機づけも難しいでしょう。
八竜会も、年配の方が主体のようでしたので、おなじような課題は抱えているのでしょうが、年に一度、ふるさとを出た者とふるさとに居る者とが、こうして一同に会することは素晴らしいことで羨ましく思えました。
総会や懇親会の模様を眺めていますと、ここの土地柄はかなりストレートなのではないか、という気がします。秋田のひとは、概してナイーブです。京文化の影響もあるように聞きますが、良く言えば奥ゆかしく、悪く言うとプライドが高くて裏表があります。そういう一般評価と正対するイメージを三種民に感じます。3月に初めて訪問した際、三種には海沿いの町の明るい開放感を感じました。その印象が残っているのかも知れませんが、在野で民俗学を研究しておられる方にぜひ聞いてみたいところです。
ワイン工房の事業に挫折したHdさんの話しは以前に触れました。
成功談をうかがう機会は得やすいものです。一事を成し遂げるためには、きわどい局面をなんども乗り越えていかねばならず、乗り越えてみれば、その経験は貴重なノウハウとなり、思い出になります。口も軽く、語り易いのです。
ところが、失敗談となりますと、そうはいきません。傷のかさぶたをはがすように痛みを感じますし、恥部をさらけだしてくださいとお願いする心苦しさがあります。
しかし、後進の者には成功談よりも失敗談の方が多くの教訓をもたらします。プロ野球の名将・野村監督が「勝利は偶然だが、敗北は必然である」と云っているように、負の要素を正しく、冷徹に観ることはマネジメント上、きわめて重要なことです。
Hdさんとは、あるプロジェクトを通じて仕事をご一緒しました。いぶし銀の仕事ぶりで、なくてはならない縁の下のパーツを受け持ってもらいました。ワイン好きであることは知っていました。いつぞや拙宅でのホームパーティにお招きした際、知人が造ったというワインをお土産に持ってこられ、ひとしきりワイン談義をしたことを懐かしく思い出します。
まさか工房を立ち上げるとは思ってもいませんでしたので、驚きましたが、事業の挫折はさらにショックでした。
逡巡はありましたが、メールしてみることにしました。いつでもかまわないので、札幌で逢って、いろいろお話しをうかがえませんかと打診させていただきました。
2ヶ月ほども経ってから回答がありました。快諾、です。
わずか2年間の事業だったが、沢山のことを学び、沢山経験し、会社時代以外の沢山の方々と出会った。貴重な体験をしたので、その経験を無駄にすることなく、これから起業される方に微力ながら協力したい、と返信メールに綴ってありました。
12月5日、札幌駅ビルで待ち合わせ、数年ぶりに逢ったHdさんは、存外に元気そうです。再起の足がかりとなる勤めもみつかり、負債の裁判にもようやく目途がついたとのことでした。
稼ぐことをねらってレストランをやるのかい、それとも夫婦ふたりの食い扶持くらいは、というレベルで考えているのか、と最初に聞かれ、後者です、と応えました。
それなら随分、こちらも話しやすい、俺はしなくてよい経験をしてしまった、こんな失敗はしてほしくない、ふりかえってみるといろいろな反省がある、遠慮せずになんでも聞いて欲しい、気遣い無用と云っていただき、それに甘えて数時間ほど、大分不躾な質問等もさせていただきました。
・ 半年あまりで開房まで漕ぎつけたが、検討不足もあって想外の投資が必要だった
・ 札幌市郊外では物件も高かった、工房ならばもっとルーラルな安い場所でよかった
・ 借財してよいケースと、してはいけないケースがある
・ 事業内容がしっかりしていれば、長期低金利で融資を受けられる、そういうものを利用して運転資金をきちんと確保しておいた方がよい
・ 単年黒字までの損益分岐点となる販売本数まで、最初の年は半分、2年目は80%程度まで行った、そこで運転資金の底がついた
やはり資金が最大の問題でした。思い立ってから開房までを急ぎすぎたのかも知れません。その間で、いろいろな課題が発生し、追加投資も要した際に走り出した勢いで引き戻すことができなくなってしまったようでした。
知床の海洋深層水で造ったワイン、あれはひとあじ違いましたね、ともちかけますと、あいかわらず目が輝きます。山ぶどうはカベルネソーヴィニョンなどの欧州の品種に近いので、なかなかいいワインになる、トマトワインにもチャレンジしようとしていたんだが・・・など話しが尽きません。
なんだ全然懲りてないじゃないですか、と云いますと、エヘへと笑っていました。いまはある先輩に拾われて、再就職させてもらったが、どこかでもう一度再起したい、商売というかたちはもうとれないが、そういう為り手のひとりとしてでもやってみたいと語っていました。
Hdさんの一連の事業活動を拙劣として批判される向きもあろうかと思います。ただ、わたしとしては、物づくりやそれを取り巻く人間模様の世界に魅せられ、そこをピュアに追求してみようとしたHdさんの心意気は分かるような気がしますし、その精神は貴ぶべきだと思います。
最後にひとつ質問させてください、もし数年前の事業を始める前にタイムスリップできたとしたら、またやりますか、つまり後悔していませんか。
またやるよ、後悔はしていない、ただ・・・・今度はもっとうまくやるよ。
ちらつく雪の窓に目をやって、Hdさんはひとりごとのように呟きました。
「2-1. はじめの一歩を踏み出す」の章で、“結果をせいたがための先入観”があったことに触れましたが、さらにわたしには“傲慢”さがありました。
秋田から都会に出てきて36年間。ときに生き馬の目を抜くような熾烈なビジネス社会の奔流にさらされてきましたので、そういう人種がもってしまう田舎への傲慢さが、わたしのなかにありました。闘ってきた、頑張ってきた、生き抜いてきた、だから田舎に還っても人並み以上にやれて当然だ、という驕りですね。
いつも強い自分でありたいし、そうでなければならないということが沁みついてしまっている。だから、なにもできない弱さをさらけだせないし、気づくことを避けようとするのです。
6月にふるさと会の畠山さんとお逢いした際、田舎に還ってしばらくは、まずはゆっくり歩いてまわりを見渡すようなことから始めても良いのではないか、とやんわり云われました。
清水さんから、小遣い稼ぎ程度の仕事ならそこそこありますよ、と云われたことも思い出します。暗に、そんなに急がなくとも、ということだったのではないかと想います。
『競争』から『共生』へ、などと知ったかぶりを語りながら、とことん勝負したがっている。まったくの自己矛盾ですね。でも、自分ではなかなか気づかないのです。
5年ほども前になりますか、近くのデパートで開催した秋田物産店で、烏骨鶏や比内地鶏の卵の自家製マヨネーズをみつけ、購入してみました。生産者の熊谷さんは、北秋田市で雑穀村をひらいているヴァイタリティの塊のようなおっちゃんです。お盆などの帰省時に寄る程度の知り合いとも言えない間柄ですが、9月の秋田訪問時に五所川原から三種への途中で立ち寄りました。その際、どういうわけか、終の棲家探しをしていることを話しました。
彼のコメントは直截なものです。
・たいへん、田舎定住のブームと言うが、こちらの生活はそうそう甘くないぞ。
・人間関係も難しい、ここにくるなら応援するが、薦めることはできんな。
・いったいなにがしたいのか、なにができるというのか。
・特技はないのか、雑穀などは相当の腕がないとつくれんぞ。
・いずれ時間を見て、泊りがけで遊びにきてくれ、いろいろ話そう。
などということをやつぎばやに言われ、たじろぎました。
熊谷さんは、30代なかばまでは東京で会社勤めをしていたそうです。それから故郷に戻り、人知れず苦労したのでしょう。だから、ひとことひとことにひとごとではない肌触りを感じます。
なにができるかと問われ、なにもできません、そう応えました。
なにをやりたいかと聞かれ、まだキチンと見えていない、そうも応えました。
痛いところを突かれ、どまんなかのストレートを見逃して三球三振の気分です。まいったなあと、しばらく落ち込んで、気持ちが澱みました。
田舎ではなにもできないということを、わたしが口に出して認め、ばんざい降参したのは、このやりとりがはじめてではなかったでしょうか。しかし、その瞬間、一陣の風が吹いて、気づいていなかったもののベールがめくれました。“先入観”の紐が解かれ“傲慢”の殻がはがれて、気持ちがふっと軽くなりました。そんな気がします。
そうなんだ、俺はなにもできないんだ、でも、だからといって駄目なわけじゃない、できなければ習えばいい、教えてください、なにもできないので教えてくださいって、そうやってあたまをさげて、素直にうけとめていけばいいんだよ。
そういう声が、深海からの使者の伝言のように、小さな気泡になって浮かび上がってくるのでした。力みが抜けて、霧が晴れていきました。
わたしが、わたしたちが本当にやりたい、田舎での生活のかたちがそのときはじめてみえてきたのではないか、と思います。
風の足跡
塚原将・作曲/小椋佳・作曲
きょうは道が遠くまでみえる
強い風がふき止んだあとだから
遥か遠くすきとおってみえる
こんなときは一人きり歩きたい
なんてさっぱりとした足跡だろう
風の残した足跡たどり
どこまでもどこまでも歩きたい
俺もこんな足跡のこし
生きてゆきたい 生きてゆきたいものだ
なんてさっぱりとした足跡だろう
俺もこんな足跡のこし
生きてゆきたい 生きてゆきたいものだ
田舎での暮らしのありようについて、いま一度原点に戻って考え直してみる必要が出てきました。最初の家族会議に向けてつくりこんだアクションプランには、ビジネス社会で沁みこんだわたしの行動や思考パターンがはいりこんでしまいました。フォースクォーターでは、そのパラダイムを変換するのです。
はじめに
1. 身の丈でやる
2. 足るを知る
3. 回り道をする
というこれからの生き方のコアコンセプト、そして、
「足るを知り、ちいさくともこころゆたかに“凛”として生きる」
というスローガン(ポリシー)をみてみます。すると、これはわたしたちの半生を振りかえって建てたものであって、あらためても、大切に護っていくべきと思えました。
ということは、すべての計画が瓦解して、ゼロに帰したわけではないのです。こういう基礎や大黒柱は、活動を始める前と後とで、じつはまったく微動だにしていなかったのです。自信をもって良いと思いました。
ですから、このコアコンセプトやポリシーを骨組みにして、「食」、「共生」、「里山」というテーマを粘土づけしていく作業を、もう一度、今度は秋田という田舎での時間の流れや逢った人のしゃべりのリズムや四季の風景や甘露な湧き水や空気のうまさを思い浮かべながらやってみれば良いのです。
先に「湧水」にはよわい、という話しをしました。
そうなのです。わたしは食物連鎖にある自然界の摂理とか、里山の循環文化に見られる生活の知恵ですとか、宇宙にある均衡とか、そういう輪廻転生の妙にわけもなく感動してしまいます。
里山の鉄人・三浦さんは炭焼き名人でもあります。わしは山にはいって、日長一日、炭を焼く、ずっとひとりでおる、ずっとひとりでおるが、その炭の炎をみているとまったく飽きることがない、と云われます。
分かるような気がします。そして、きっとわたしがやりたいこともそういうことなのです。
と言いますと、こんどは炭を焼くのか、と聞かれそうですね。そういうリズム感、自然とのそういう距離感、循環文化の知恵の深さに好奇心をそそられ、自分が自然と対峙するものではなく、その一部になるような、そういう暮らしをしたいのだと思います。それが、本当にやりたいことです。
つまり、自給自活的な生活です。継続可能な農的な生活です。
しかし、それは、かつて貧しい山村にあった、残された選択肢としてのものではありません。明るくて、じめついていない自給自足的生活です。
物に溢れた都市生活者が、その贅肉をそぎおとし、本物の豊かさを求めた果てにあるものです。古(いにしえ)と先端が共存共栄する世界です。
畑をやりたいのは、だからそのためで、家畜も飼おうと思います。
仙人のように孤高するものではありません。むしろ積極的にコミュニケーションを図っていきたいと考えています。
自給自足的な生活は、夢想者のたわごとではないことを、まず自らが実践してみることからはじめなければなりません。数年はかかるでしょう。
その上で、その快適性を広く発信してみたいものです。なぜでしょうか。それはこの世界にいろいろなゲストを迎えることが、より多くの豊かさをもたらすような気がするからです。また、子々孫々に胸を張って伝えるべきもののひとつとして紹介していくべき生活様式と思えるからです。
リストランテは、そのために外部に開かれた仕掛けです。わたしたちが、もっとも満足と思える生活を創り、その空間の一部を切り取って提供するのです。だから、店舗兼用住宅という環境でやりたいのです、小さな素数のように。
シナリオと計画所の2つの資料が、あらためて出来上がっていきました。としのはじめの第3回家族会議の資料がこうして形になっていったのでした。
年明けの会議のために、年の暮れきらないうちに用意できたことに安堵を覚えていました。
結局、リストランテ開設までの期間は定住の2年後で再設定となりました。考え方としては、わたしたちが里山生活に馴染むまでの期間に符合します。実際には、3年あっても良いのかも知れません。これまで新しいことに挑戦して、ひとつのかたちになった年月を考えると、2年間という期間はまだすこし急ぎ足なのかも知れません。ただ、プランニングの時点でゆとりを持ちすぎますと、ずるずるずれ込んで行くものですので、現時点では妥当ではないでしょうか。あとは、現地に飛び込んでから、臨機応援に軌道修正していくことだろうと思います。
このたびの活動を「プロジェクト」と想定してみますと、発注者がわたし、受注者もわたしという見方ができます。提案・基本設計期間は2年間で、細部設計・開拓/構築期間が2-3年間。受注金額は、発注者の財源限界上、大きくはありませんが、意気に感じる仕事です。
検収条件は、パーマカルチャの物理環境を実現すること、発注者にそれを維持運用・拡張するためのスキルやノウハウを付与すること、収入源確保の基盤を整備すること、といったところでしょうか。発注者の立場からみますと、里山暮らしに精通したところに請負って欲しかった気もしますが、まあ悪くもなかろうと思います。なにしろ、発注者の気持ちをこれほど分かる受注者はいないものですから。
いまでも不安は消えませんが、迷いは不思議になくなりました。たとえどのような結末が待っていたとしても、やってみようと決意したとき、恐怖心も消えていました。恐怖は、傲慢さが鏡に映った幻影だったのかも知れません。