道しるべ・トップ/あらすじ |
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■ 都会での準備篇 |
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Chapter0. としのはじめの家族会議 |
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Chapter1. プロローグ |
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Chapter2. 2008年のできごと |
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Chapter3. 2009年のできごと |
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Appendix1.笹村あいらんど視察 |
Appendix2.たんぽぽ堂視察の記 |
Appendix3.すれ違いは埋まるのか |
Appendix4.田舎の土地の探し方 |
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■ 移住開始篇 |
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Chapter4. 2010年のできごと |
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4-1. どんな一年になるのか |
4-2. 新居のデザイン(訪秋第8回目) |
4-2-1.サクラバ設計との打合せ |
4-2-2.仮住まい場所 |
4-2-3.NPO新年会 |
4-2-4.豪雪の秋田 |
4-3.空の巣 |
4-4.鳶巣さんとの再会と壮行会 |
4-5.会社を去る日 |
4-6.引越 |
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いよいよ定住のスタートです。
準備に2年をかけました。初年は、わたしたちがやってみたい“暮らし方のアウトライン”を自己確認するための思考的な「静」の、あるいは「内面的」な一年。2年目は、土地探しを中心とした行動的な「動」の、そして「外交的」な一年でした。
2010年は、DreamerからRealistになるとき。「屈」の一年と言えるのはないでしょうか。「屈」服ではありません。「屈む」ことです。人間、跳躍するには、いったん屈まなければならないのですから・・・。
2010年のおもな活動
2010.1.13 東京新聞の取材
2010.1.14-1.19 第8回秋田訪問
2010.1.19 長男の引越
2010.2.18 サクラバ設計との打合せ
2010.2.22 二女の引越
2010.2.23 静岡がんセンタ・鳶巣院長との再会
2010.3.05 会社有志による壮行会
2010.3.07 横浜最後のホームパーティ
2010.3.31 会社を去る日
2010.4.04-05 引越し、そして移住開始
ずばり、移住を開始する一年です。面舵いっぱい。
移住を開始するということは、都市生活をたたむということをも意味します。飛ぶ鳥、跡を濁さず、せいぜい後顧の憂いがないようにしたいものです。私生活しかり、会社生活しかり。
移住し、今年の前半でやっておきたいことは、開墾をはじめとした向こう三年を見通したプランニングです。畑をどうやって再興し、なにをいつ栽培していくのか。山羊や鶏を飼養する環境を造って、いつどれくらいの規模で始めていくのか。これは地元の有識者・経験者のアドバイスをふんだんに取り入れていきたいところです。もちろん実践も開始します。
まずは在郷の地で生活の基盤を立ち上げることが第一です。いずれその一部を広く開放していきたいという夢は、夢は夢として、一旦は奥に潜めることです。
少しずつでも、現金収集を得る道筋を探すことも重要です。わずかな退職金を生活費のためにとり崩したくはありません。シビアな現実に向かい合うことになります。
住宅づくりも着々と進めたいものです。仮住まい場所から、年の暮れまでには狭いながらも暖かい我が家に腰を落ち着けたいと考えています。
まあ、これでこの一年は手一杯でしょうね。
1. 都市生活を憂いなくたたむ
2. 移住から定住まで(三年間)のプランニング
3. 田舎暮らしで現金収入の道を探る
4. 新居の実現
2010年は、4本の柱になりました。
1月14日(木) 移動<夜行高速バス> 横浜⇒
1月15日(金) 秋田市着⇒能代・サクラバ設計
1月16日(土) 仮住まい打合せ、NPO新年会
1月17日(日) 三種町⇒秋田市
1月18日(月) 秋田市実家 移動<夜行高速バス> 秋田市⇒
1月19日(火) 横浜
詳細スケジュール
この春の移住までにしなければならないことは、「土地を決める」ということと、「仮住まい場所を定める」という2点に絞っていました。それ以外は、住みはじめてからやれば良いし、また、住みはじめないと始まらないことです。住み始めてみないと動かないことを、住み出してもないうちから、とやかく気を揉むよりは、都市部に住んでいるうちにやらなければならないことをやった方が良いに決まっています。
都市生活も30数年にもわたりますと、それをたたむのも、引越という物理面だけではおさまりません。そのひとつひとつを整理して、憂いなく、フォースクォーターに臨みたいものです。
第8回目の訪秋の目的はふたつ。ひとつは住宅の大枠決めに関するサクラバ設計との打合せ、もうっひとつは仮住まいに関する仔細の段取りを家主とNPOとで詰めるためです。ただ、ここでは過去の7回とは違い、わたしひとりで行動しました。息子の引越と時期が重なってしまったこともありますが、どちらかは横浜に残っていることがより大事と思えたからです。
住居の設計に関する委託契約をとりかわしてから初回の打合せになりますので、主題は大枠の大枠決めです。
「3-18.至福のとき」に記載したとおり、こんなイメージでやってみたいという要望書を提示しており、それを受けて、4つのパターンでの平面図も送付いただいておりました。しかし、建物には、価値観とか好みといった機微がかかわります。何度か電話やメールでのやりとりもしましたが、やはりどこかでFace to faceでの打合せの場が必要であることを、わたしも櫻庭さんも感じておりました。
年内の竣工から逆線表を引くと、移住後の開始では遅すぎます。年明け早々にやりましょう、ということになりました。
せっかくの機会ですから、なるべく有効な打合せにしたいものです。わたしたちの「家」への思いや期待する機能を箇条書きし、専門家の目からは一笑に付されることを承知で、素人図面も引いて、事前に送付して、お目通し願いました。(送付資料-pdf形式)
そういうものであっても、プロの理解力のもとで、打合せはスムースに進みました。ただ、非常に大事なことは積み残しになりました。それは、費用と予算とのギャップです。これはもう優先順位をつけて、削るところを削っていくしかありません。その優先順位の考えも整理してきました。
この場で取り決めた、もっとも大事なことは「まずは住宅としての仕様をベースにして進めましょう」ということです。
この打合せを行うまで、わたしは店舗兼用住宅であることを前提として設計を進めていくつもりでした。櫻庭さんとのディスカッションを経て、それはすこし無理があるなあ、ということが分かってきましました。
たしかに、将来、わたしたちの生活の一部を不特定の方に向け、農園リストランテとして開放したいという夢を思っています。ですから、いまの時点から、そういう空間設計も合わせて行ってしまうことが、効果的であると考えていました。しかし、考えてみますと、そもそも生活の基盤すら、立ち上がっていないのです。農園リストランテという空間は、そういう基盤の上に乗せていくものですから、現段階で確たるイメージを持ち合わせていません。それがないのに店舗としての仕様を織り込むことは、土台無理です。無理を承知で押し込めば、どこかで自己矛盾を起こします。それでは、結局は使いものにならない箱になってしまいます。
原点に立ち返ってみますと、わたしたちが「快適と思える空間」を創ることが一番大事です。そのためには、すこし拡張性を考慮した「住居」でスタートすることが、やはりもっとも良いかたちに思えます。地元の食材を使っていろいろな調理を楽しんでみたいものです。ですから、キッチンは快適なものにしたいと思っています。あとはリビングをゆったりとしておけば、然るべきタイミングが来たときに、どうにでもなる筈です。そのときに必要な改造を加えて、保健所などの指導も得ながら、必要な手続きを進めていけば良いことです。
わたしたちに潤沢な資金があれば、大胆に投資してしまう手もあるでしょうが、限られた資金を無駄なく投下するためには、「手順を追う」ことでしょう。投資力が乏しければ、夢を入れる器は「それなり」のものにしかなりません。大きな夢を大きな器に、ドカッと入れることができれば、それにこしたことはありませんが、現実をしかと観ることが重要です。
たとえば、生活の基盤を創り、それを継続させるには、現金収入も必要です。土地の開墾などと並行しながら、働き口をみつける努力も求められます。有効な求人を探して、ハローワークにも顔を出すつもりです。田舎に棲みつくことが、いよいよ現実のものになってきました。その現実をきっちりみつめて、いろいろな課題を乗り越えていく、そういう段階になったのだと思います。
潤沢な資金があり、あるいはぬきんでた能力があれば、おおがかりな夢の器を準備することができます。限られた資金と能力では、それは自ずと限られたものになるかも知れません。でも、人生の幸せというのは、身の丈をわきまえながら、かつ前を向いてチャレンジしていくことなのだと思います。そうであれば、器の大小はともかく、その器に入れ込む中味がなんであるかがいちばん重要なことです。等量にはならなくとも、等質にはなるのです。
仮住まい場所の調整は、ひじょうに順調でした。4月の引越しに先立って、事前に電気工事やプロパンガスの工事を行い、配線系に異常がないか、井戸水のポンプが正常に作動するか、チェックしたいと考えています。引越ししたはいいが、とても住める状態でない、というのでは困りますので・・・。本来はそれも、わたしたちが、現地で行うべきものですが、できればNPOに代行していただけいないか、というのが趣旨でした。
大家さんとNPOの立会いで調整いただき、快諾いただきました。ついでに掃除もしておいてあげるわ、という心強い約束もいただきました。
2年間、空家だった井戸水の安全性をどうやって確認するのか、あるいは離れにある、いわゆるボットン便所をすこしでも快適に改善できる工夫はあるのか、風呂はシャワーしか使えないようなので、現実的にどうやって対処していくのか、そういう課題も多々ありますが、それらは住み始めてからバタバタと整理していくしかないと思っています。まずは、引越しできるところまでの段取りは組めそうです。
わたしの秋田行きに合わせて、NPO一里塚の新年会が開かれました。
新年会をやるので、できる範囲で構わないから、料理をつくってほしいと言われました。食材の調達から下ごしらえ、調理まで、料理をつくるということは、壮大な段取りの集合体になります。慌しい旅程の合間を縫って、また、使い慣れない民宿のキッチンでどれだけできるものかと、逡巡する気持ちもありましたが、ともかくやってみることにしました。23名分、会費は1,000円強/人ということですから、タパスのようなおつまみを主体とし、あとは会員のみなさんがおにぎりやお新香などを適宜、持ち寄ることになりました。
この地域ではイタリアンのお店はありません。そもそも外食産業がほとんどありませんので、こうしてちょっと手を入れた調理法でのメニュには、もの珍しさがあるようです。
リップサービスも多分にあるでしょうが、みなさん、美味しいと云ってくださいました。わたしにとっても、これだけの人数のパーティ形式の多種なアンティパストメニュを組み立てるのは初めてでしたので、ひじょうに新鮮な思いでした。2万円強の予算があれば、こうして軽いつまみをいろいろ提供することも可能になります。地元の食材を意識しながら、メニュを組み立てて、調理する行為は、刺激的で楽しいものでした。
お開きとなった後は、藤里の小坂さんと写真家の江川さんがそのまま民宿に泊まられるということで、深夜まで雑談の会になりました。江川さんは、郷土史などの研究もされています。なまはげの由来やそれぞれの地域での伝承について、興味深い話しもうかがうことができました。
翌日は、理事長と連れ立って、6種のレタスを水耕栽培している現場を視察させていただきました。電気工事会社を経営する方が、その社員の定年後のチャンレンジとして、補助金を利用しながら施設をたちあげたものです。ハウス内の室温をあげるため、堆肥熱を利用できないものか、試行錯誤されています。電気屋さんなのだから、電気を使えばなんのことはないのですが、そうはしたくないとおっしゃるところに意気を感じました。
秋田に住み始めたら、地元の食材を、四季おりおりに研究してみたいと考えています。直売所や五城目という町で開かれる朝市に、足繁く通い、どの季節にどういう食材が出回るのか、山菜やキノコ、野菜、魚介・・・そういうものをくまなく記録していくのです。
それらの食材を、地元のみなさんがどういう調理法で食べているのか、これは、とくに年配のお婆さんに聞きまわってみたいものです。ヨネスケ、隣の晩ごはん、をするのです。そして、イタリアンという調理手法をとった場合、どのように工夫すれば、これらの素材の良さを引き出すことができるか、ということを散々に試行錯誤してみたいと考えています。
畑には、ハーブやイタリア野菜を植えてみます。
土つくりが大事ですが、それに並行しながら、秋田の気候や土地の土壌で、どういうものが育つものか試していきます。自家採種でやりたいと思いますし、不耕起で農薬も使いたくないと考えています。ハーブは育てること以上に、利用方法が大事です。ハーブティを中心に、フレッシュなもの、乾燥させたもの。また、ポプリや石鹸・・・。これもすべて記録に残していきます。
山羊を飼って、ミルクを搾ります。
ヨーグルトやアイス、ちょっと高度ですがチーズ。そういうものへの加工にチャレンジしてみます。鶏も少数羽ですが、飼います。
残飯や雑草を餌とし、生ゴミや落ち葉や糞で堆肥をつくります。それを畑に還元します。そういうことをやって、失敗やすこしの成功を繰り返しているうち、3年目くらいには、なにかほんのりとかたちが見えてくるのではないかと想っています。何冊もの大学ノートが記録帳として積み重なる頃です。
その過程で、地元のみなさんから教わりたいことが山ほどあります。そして、NPOや近隣のみなさん相手に試食の会などを催し、辛口のコメントをどしどし寄せてもらいたいのです。風土や郷土史といったものも学んでいきたいと考えています。そういうことを通じて、コミュニティの輪が広がり、それが、三種の一住民として、地に足をつけた生活を立ち上げていく足がかりになる筈です。
その後の夢は夢として、まずは、そういう「原点」に基づいて生活の足場を固めていきたいものです。
気象庁の長期予報に反し、この年の北国は豪雪に見舞われました。
前年2月の訪問では、まったく白いものが見当たらなかった三種も一面の雪化粧でした。それでも、ここは積雪の少ない地域です。中山間部とは、あきらかな差があり、秋田市レベルであることが、あらためて分かりました。ひっそりと雪に埋もれる冬も魅力ですが、毎日の雪掻きなど、生活の労苦と思えば、いつか迎えていく老後には助かる条件のひとつに思えます。
秋田市の実家に寄りましたら、老いた両親も息子の帰還を心待ちにしているようです。それまでは、退職後の生活などを心配しておりましたが、ここまで来たら、早く還ってきて、あとは好きにやれ、という雰囲気になりました。
わたしたちのJターンのモチベーションになっているもののひとつに、秋田市と五所川原市の双方の両親が健在であることがあげられます。最後に少しの親孝行でもできれば、という気持ちがあります。しばらくは、自分自身の生活もままなりませんが、これまでとは違って、おりおりに顔を出すことくらいはたやすくできます。長命でいてくれる両親に感謝したい心持ちです。
わたしたち夫婦の移住は、親と子との別れの季節も意味します。
婚約を機に、昨夏、長女はすでに川崎のマンションに引き払いましたが、今度は長男、そして相次いで二女が独立していきました。
長男は、一時期、北鎌倉のアパートに住んでおりましたが、わたしたちの計画を知り、最後となる一年は一緒に暮らしたいという妻の願いを受け入れて、戻ってきていました。横須賀・衣笠に転勤するタイミングをとらまえて、その近傍に転居しました。
次いで、二女。
彼女は、これが始めての経験になります。それもあってか、いろいろな候補の部屋をなんども下見し、その都度、妻も立ち会ってきました。結局、現在の団地から自転車で5分程度の近場のハイツに決まりました。住み慣れた街がいちばん、ということなのでしょう。日当たりも良く、こじんまりとした部屋は、独りで住むに快適そうです。
雛が巣立った鳥の巣の跡を親鳥が見返ることありませんが、子どもが巣立った部屋にたちすくむのは母親です。
子どもたちが去ったがらんどうの部屋で、彼らが残した残骸を、宝物のように整理している母がいます。泣いている彼女の表情が背中越しに見えてきます。
わたしたち夫婦が、わたしの退職後に秋田の在郷で過ごすことは、夫婦ふたりも、そして子どもたちも納得のうえのことです。それでも、その時期が間近になり、団地間で生活をともにしてきた息子や娘がひとり、ふたりと去っていく現実は、母親にとってつらいものです。
背中越しの妻の涙をみて、これでよかったのか、とわたしは自問自答します。俺の身勝手かな、という思いがよぎります。
これで良かったんだ、と、数年後に、十数年後に言えるようになれば良いし、そう言えるように、お父さんも頑張るから、と呟きます。いつまでも一緒にいられる家族であれば良いのかもしれないけれど、いつかはそれぞれが独立していくのです。離れても家族は家族、親子は親子。
わたしたちの田舎暮らしには、子どもたちが、あるいはやがて産まれるであろう孫たちの「還る場所」を創りたいという願いも込められています。彼らにとって、育ったことのない土地でも、両手を振って迎え入れる家族が居ればこそ、そこは「いつでも還れるふるさと」になるはずです。
背中越しの妻の涙を感じながら、37年前にわたしを東京に送り出した実家の母親を推し量ります。ボクがいなくなった部屋の残し物を、きっと宝物のように片付けたのでしょうか。
これで、妻の愚痴の聞き役がいなくなってしまいました。夫婦関係の大きな変化になります。
秋田でふたりだけになって喧嘩したらどうするの、と聞かれます。そうだな、犬でも飼うか、ということになりました。飼われる犬の身になると、たまったものではありませんが、どうか愚痴の聞き役になって欲しいものです。
都市での生活は、結局、わたしが37年、妻は34年にわたりました。秋田への移住は、その長い都市生活を、後顧の憂いなくたたむことにつながります。人事異動による転居とは、重みが違います。
この機会に、かつてお世話になったみなさまに出来得る限り逢って、挨拶すべきと考えました。仕事関係、ラグビー関係、・・・緑栄塾やNPO NORAのみなさんも然りです。
ふと、この30年ほど音信不通になってしまった鳶巣さんのことを思い出し、無性にお逢いしたくなりました。逢うべきだと思いました。
鳶巣さんとのことは、「1-5.望郷」で触れたとおりですが、わたしが二十歳かそこらのころ、社会人の入り口の5-6年にわたって、爪の垢を煎じるまでもなく、原液でちょうだいした方です。現在、静岡県立静岡がんセンターの院長をされていることは知っていました。
さっそく、電話をかけ、秘書の方に事情をお話ししましたら、ほどなく折り返しの連絡がありました。
おぉ、久しぶりやなあ、もちろん覚えとるでぇ、あれからもNHKで動物番組を観るたびに思い出しとったんや、そやな、是非会いましょ。
となり、多忙のスケジュールを割いていただき、JR三島周辺でご馳走になりました。
あのときやっていたことと、いまやろうとしていること、君はあのときのままやなあ。軸がなんにもブレてへん、と一言。
あれから、鳶巣さんは人の生死に立ち会う道に進みました。人間、生きているうちにやるのが花やんか、なんでもありよ。そうおっしゃる鳶巣さんこそ、あのときの青年のままです。
帰りの電車路は、ずっとあたたかい湯たんぽを抱えたような不思議な気分でした。久々の爪の垢原液は、いまだにあるわたしの弱気や迷いや邪念を、強烈な腹下し剤のように清浄してくれました。
ラグビーや仕事の関係でも、かつての恩師や上司であった方々におあいし、それぞれ、ときに厳しく、そして温かい檄をちょうだいしました。
妻も剣道関係者とのお別れ会が延々と続いていました。
遠方でご挨拶にうかがえない方には、手紙や葉書をお出ししました。
その合間を縫って、数多くの送別会や壮行会もやっていただきました。どれもが違う顔ぶれ、また、懐かしい顔ぶれで、内容の濃いものでした。
膨大なイベントが、そうしてひとつ、またひとつと終わっていきますと、なにか一抹の淋しさも湧き出てくるのでした。
職場の若手が中心に幹事役を買って、これまで仕事などで関連したメンバーに声をかけて、開催してくれた壮行会は、なかなか圧巻でした。
どこでやるのか、どこまで声をかけたのか、どのくらいの規模になるのか、わたしには完全シークレット。
蓋を開けると、驚くほどの顔ぶれが揃い、また海外赴任などで来られないメンバーから夥しいメッセージや心遣いをいただき、面映いながら、ひじょうに嬉しい会となりました。
途中、目隠しをされ、開けてみますとビックリ玉手箱で、目の前に妻が立っております。
男って奴は、なんにも悪いことをしていないのに、なぜあのように唐突に妻に正面立ちされると、分けもなく狼狽してしまうのでしょうか。わたしに内緒で呼んだのでした。妻も妻で、このたくらみに完全にのっかって、素知らぬ顔を決めていたのです。
たくさんの言葉と、たくさんのメッセージと、何枚もの色紙と、海外からのビデオレターと、記念の品までいただきました。ほんとうにありがたいことで、身に余る光栄。
会社に在る、ということは、仲間とともに在った、ということですね。肌身にしみる出来事となりました。
記念の品には、生涯使える物を、ということでダマスカス鋼の洋包丁を贈ってもらいました。ますます料理の腕を磨かなければなりませんね。いや、その前に、まずは田舎での生活を、これで「切り拓いていく」ことにしましょう。
ほんとうに慌しい2ヶ月余りでしたが、いろいろなかたちで、たくさんの思いをいただく機会になりました。その思いを、そのままに田舎に持っていくことにしましょう。
わたしたちが30数年の都市生活をおくってきたことは、ただ単に過ぎていく時間を見送っただけではなかったのです。それは、決して虚構でも蜃気楼でも、かりそめでもなく、そこでの人々との出会いによって、実像としてわたしたち自身のなかに刻み込まれていることが実感されるのでした。
そうこうするうちに、会社生活の最後の日は、あっけないほどにやってきて、過ぎ去ります。2010年3月31日。わたしにとって、37年間の会社生活を締めくくる、人生のコンマを打つ日でした。
あれだけ壮行会や挨拶廻りをしますと、さすがに実感が湧いてこないとは言えません。それでも、なにか最後まで芝居を演じているような妙な感じでした。退職の役回りを演じる役者の気分です。
おりしもパリから来日していたマーク・オサール君から昼食の誘いがあり、久々の再会を喜び合いました。日本で仕事をしたいのだそうです。そういう希望も少し見えてきているようです。願いが叶いますように・・・。
アムステルダムに赴任中のTdさんも来日しており、オフィスに寄ってくれました。彼の奥様はフランスの方。いまの生活をエンジョイしているようです。Tdさんは、いずれ欧州での定住も視野に入れるのでしょう。
日本に来たいフランス人、欧州に棲みたい日本人、グローバルな世の中です。
そして、わたしは舵をきって、ローカルなカントリーライフに向かいます。
昨春、不動産会社を立ち上げた小原さんにもお逢いしました。起業して一年、ひとときたりとも気の抜けない世界で、彼女はいつでも明るく、前向きです。
それぞれの思いや事情、あるいは人生感があって、それぞれがそれぞれの道を拓いていく。これで良いのです。
いずれ勤続37年と言えば、人生の半分をこの企業で過ごしたようなもの。思い入れもあります。
棚の資料を処分していたところ、膨大な枚数の名刺が出てきました。この10数年のビジネス活動で、これだけのお客様や関連ベンダーと会っていたわけです。一枚々々に日付と案件のメモが走り書きしており、そのときの光景が浮かんできます。それから発展して、受注に至ったものもあれば、残念ながら失注したものもあります。いまとなれば、それらすべてが自分という者のなかに刻まれた小さな歴史です
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後生大事に持ったとしても、どうなるものではないでしょうが、さすがに、捨てる気になれず、手提袋にドサドサ入れて、持ち帰りました。
企業を離れて独りになってみると、いかに企業に居ることがありがたかったか分かる、と言います。わたしにも、きっとそういう場面が訪れることでしょう。
そこで泣き言を言わずに、どうやって踏ん張れるか、頑張れるか。あるいは、そういう苦境をも楽しめるのか。それが、企業にあって、いろいろ支えてくれ、わたしを育ててくれたみなさんへの恩返しということなのでしょう。
オフィスの扉を離れるとき、我ながら心穏やかに、立ち去ることができました。初めて、すこし実感が湧いてきたのでした。
わたしは、就職以来、7回の転居経験があります。どうなんでしょう、多くもなく、少なくもないといったところではないでしょうか。
ところが、今回の引越しはこれまでとは、まったく違うものでした。ひとつには、その団地で15年間過ごしたことがあげられます。子どもの成長などに合わせ、家財が思いのほか、増えていました。しかし、それ以上に重要なことは、都市生活をたたむということです。物を横浜から秋田に単純に運び込めば良いというものではなく、ひとつの生活を後顧の憂いなくたたんで、新たな生活をはじめるための行為なのです。
住所変更ひとつとっても、その手続きは予想以上に大変です。住民票や運転免許などはすぐに思いつきますが、保険、クレジットカード、銀行、パスポート、通販等のネット登録のものなど、今の時代は多種多様にわたります。
団地住まいの長い期間、使い続けた家電もそろそろ寿命を迎えていました。TVやエアコンは廃棄しましたが、除湿機、掃除機、洗濯機、アイロンなどは、これを機会に買い替えしました。洗濯機は、仮住まいが終わるまでは頑張ってもらおうと思っていましたが、引越しの一週間前になって、うんともすんとも云わなくなってしまい、購入を余儀なくされたものでした。
荷造りは2週間以上かけて行いました。おまかせパックの利用でしたので、荷造りをふくめて業者にお願いできましたが、壊れ物や大事なものは、やはり自分たち自身の手で養生しながら梱包しました。
健康保険の任意継続など、退職に関わるいくつかの手続きや支払い、電話・ガス・電気などの移転手続き、リサイクル品や粗大ゴミなどの処理、挨拶葉書の住所整理、そして荷造り。退職後の生活を考えると、極力、費用は圧縮しておきたいもので、エアコンの取り外しやヒビの入ったガラスの交換、壁の修復などは自力でやりました。業者にお願いすると、何万円もかかります。
これらの作業を、仕事や挨拶廻り、送別・壮行会の合間をぬってやることになりますので、段取り良くというわけにはなかなか行きません。4月4日に横浜を引き払う日には、そうとうヘトヘトの状態でした。
ただ、これらの作業は、前もってできることは限られますので、やはり短期集中でやるしかないでしょうね。
どうにかこうにか、梱包を終え、荷積みをして、引越トラックが出たのが、4日の正午前。
顔を出してくれた数名の職場の仲間と末娘とあいさつをかわし、横浜を出発したのは、午後1時くらいになります。
別れの重さはなく、じゃあ、またね、といつものようにお別れできたのがなによりでした。
いそぐ旅ではありません。当日は岩手・水沢の温泉旅館に一泊し、三種町に入りましたのが、翌5日の11時頃になります。仮住まいの鍵を預かっていただいているNPOの事務所に入りましたら、待ち構えていたかのようにたくさんの拍手で迎えられました。それが、わたしたちの移住の開始のときになります。
to be continued.....