ぼくはね、音楽と料理とスポーツ、それと写真ってすごく似た要素を持っていると思うんです。偉そうなことは言えませんが、自分という人間とすごく親和性があるような気がします。
消えるんですね、一瞬で。膨大な時間と労力をかけた準備のすえに、楽器から奏でられた音も、心をこめた調理の味も、渾身のプレイも、すべては跡形もなく消える。写真は残るでしょ、と思われるかも知れませんね。でも、あれは移ろう光と影を切り取っているだけ。印画紙にあるのは余韻、若しくは残像であって、ファインダーから覗いた本物は一瞬で消えているんです。音楽をCDで残したり、スポーツシーンをDVDの映像で記録することに似ています。
この世界では、本当に大事な「真実」をかたちとしてとどめることはできません。その場にいたゲストやチームメートの心のなかに感動や記憶という無形のもので残っていくものだと思います。
一方、彫刻や絵画というのは、芸術家がその作品に「真実」を「永遠」に封じ込めていく行為の果てにあるものです。だから、そこにはいろんな一瞬が凝縮している。自然や宗教や時代や作家の価値観や人生そのものなど、いろんなものが詰まっているような気がします。(壮大な建築物や小説も似ています)
だから、前者はなにか解き放された気持ちになるのに比べて、美術館を巡ったあとは深く自分の内面に突きつけられるものを感じます。
でも、双方にあい通じるのは「調和」ということではないでしょうか。それは、人間が人間として、生物の一員として生まれながらにしてひきつけられるもの。
たとえば、浜辺を歩く。寄せては引く波打ち際にたゆたう貝がらをみつけます。彩りの鮮やかなもの、巻貝などでシンメトリックではない、ちょっとかたちに個性があるものなどをみつけては、ぼくらは嬉々としてひろいます。
子どもたちが小さいころ、よく近くの公園で遊びました。小さな林に子どもたちと入れば、せっせとどんぐりを拾いはじめます。
やがてポケットや両手は一杯になります。
なぜ、小石ではなく、貝がらであり、どんぐりなのだろう。なぜ、幼い子どもですらも、そこにある生の痕跡や宿りがわかるのでしょうか。
その答えのなかに、芸術はもとより、科学・数学や自然の根源が隠されているような気がします。そして、それがわたしたち人類にもインプリントされているのではないかと思えるのです。
だから、芸術というものは分からなくともよいのだ、と思います。なんとなく感じてれば、それでよいのだろう、と。
ただ、そういうものにときおり身を寄せることはとても大切です。
美術館やコンサートに足を運んだり、自然の中を散歩したり、きちんと手をかけた料理をいただいたり、そういう世界に小指一本でも接することで、自分のなかに根っ子と言いますか、ピュアなものをいつまでも温存できるような気がするのです。