<2002.10.10>
「北の国から2002遺言」を観た。
倉本聰の脚本は、いつも生と死とがモチーフとなったり、あるいは、背景色になったりしている。そして、生と死とは対極にあるのではなく、ひとつの世界に隣り合わせで同衾している。
この作品では、中畑和夫の妻みずえが癌で逝く。演じた地井武男が、奇しくも奥様を癌で亡くしたばかりで、そういう状態では、さすがに役づくりは無理だろうと、倉本さんも降板を覚悟したそうだが、そこは役者魂というのだろう。
五郎たちは、和夫の娘の祝言に間に合わせようと家づくりに励んでいる。廃棄物で造った五郎の家に娘婿がいたく感動し、自分たちの住む家も建てて欲しいと頼み込んだものである。和夫も、夜も押して作業を続ける。死期の迫るみずえに完成した家を見せたい一心である。作業を進める脳裏に、みずえとの、あるいは家族との思い出が次々に湧き出てくる。やがて堪えきれず、堰をきったように泣き崩れる。その万感、鬼気と迫る演技が話題となった。
遺言というサブテーマどおり、五郎が蛍や純への遺言書を書く、その顛末が主脈になっている。筆のたたない五郎への指南役にたったのが、「遺言書のベテラン」として高名な元中学校長・山下である。
山下は、五郎にまず遺言をしたためることの意義や心構えを説き、手本を示す。かしこまって神妙に聞き入る五郎。しかし、言葉はいっこうに浮かんでこずに、ひとこと書いては、行き詰まって破り捨てることを繰り返す。
この遺言書の教習料は、大工仕事を教授することと引替えとなっている。遺言書では山下の門下に入った五郎が、家づくりでは師匠となる。教えるものとそれを乞うもの。その逆転した立場が、交互に映し出されるシーンは軽妙洒脱で、笑いを誘う。
これは、倉本さんが富良野という北辺の在郷に棲んでこそ、ごく自然に描き出されたものなのではなかろうか。ひととひととが、俗社会の階級感によらず、素でまじわっている。中学の校長が、その肩書きのゆえに偉いわけではない。自給自足の生活をしている五郎が、定職を持たぬという身分によって下流なわけでもない。ふたりの関係は、まったく同等であって、たまたま遺言書を通じては山下が師となり、大工仕事では五郎が師となる。そこには金銭も介在せず、労働が双方から奉仕される。会社組織や都市社会での規範に親しむものたちが、このようにすんなりとふるまえるかと言うと、なかなか至難のことと思う。とくに男たちは、すぐに彼我の優劣をみいだして、序列をつけたがる。
わたしには、この五郎と山下に代表されるような田舎での人間関係のありていがひじょうに新鮮に見えたのである。
自活・自律した個々人が、穏やかなネットワークでフラットに結びつき、広く地域コミュニティの基盤づくりの一翼を担っている。そのネットワークは、農的生活という共通項をベースとするが、個々人の個性や特技、志向ごとに、幾つかの重層で構成されている。しかも、適宜、生き物のようにコネクションの規模や相手先を自在に変えるのである。それによって、個人の有する価値を、地域の財産として蓄積することができるし、あるいは地域の知恵やヒューマンパワーを助け合いというかたちで、個人に還元するのである。
これが成熟した、おとなの社会における地域コミュニティのありかたなのではないかと思えている。
そして、それを可能にする温床は、指揮命令系統を整然と持つ都市型の競争社会ではなく、個々人が自然と向かい合いながら、農業や林業・漁業などを営んできた共生型の農村社会にこそあるのではないか、と考えるのである。
五郎の遺言は、山下の教えに沿うような高邁なものにはついにならなかった。しかし実にいいのである。
ここにはなにもないが自然がある。自然は生きていけるだけのものを食わせてくれる。自然から頂戴しろ・・・。
遺言とは財を為したものが、その分け前を相続者に示すだけのものではない。むしろその生き様を遺すものなのである。これだけは胸に抱えておけ、という魂のバトンタッチである。富良野に還って、家を建て、山の木を伐り出し、沢の水を引き、北の大地と向き合って生きた五郎という人間だけが描ける遺言がある。
21年間にわたって親しまれた「北の国から」も、この物語で幕を閉じることになる。倉本さんを始め、このドラマに携わったひとびとの思いが、この遺言の書のひと文字ひと文字に、ぎゅっと凝縮して詰まっている、そういう作品である。