<2009.7.17>
かつて、ラグビー部の後輩が、若くして肺がんで逝った。まだ27歳だった。わかったときにはもう手遅れで、若い分だけあっという間だった。風のように駆け抜けていった。
わたしは、チームの草分け時代の選手であり、彼、Ngは補強選手の第T期生だった。
当時、主将をつめていたわたしは、ある日、ラグビー部長に呼ばれた。部屋に入ると、監督のとなりに、ブレザーを着たふたりの学生が緊張した面持ちで座っている。“来春、入社するふたりだ、しっかり面倒みろ”と言われた。
精悍な面構えをみて、心が躍った。これで一歩、踏み出せるぞ、と思った。
まったくの弱小チームだったが、それでも地道に練習や合宿を重ねるうちに、少しずつだが勝ちを拾えるようになっていた。やればそれだけのものが還ってくる、という自信も部員たちに芽生えてきたころだった。観てくれていたのだろう。補強策を打つには、まさに絶妙のタイミングに思えた。
人に対しても、組織に対しても、先行投資は大切だと思う。
勝つためには、良い選手がいなければならない。だが、良い選手を呼ぶためには、結果を出していなければならない。鶏が先か、卵が先か、の論議に正解はないが、適切なタイミングで適切な投資が為されてこそ、物事はゴロリと動く。後に聞いたことだが、このときの補強採用にも、会社内では賛否両論が巻き起こったようだ。責任は俺がとる、という部長のひとことで決まった。
英断を下した“漢(おとこ)”がいた、ということだ。
日本社会の変動につれて、あれからわたしの会社の経営形態もおおきく変貌した。その波をかいくぐりながらも、ときどきの後輩に引き継がれて、いまもチームが存続・発展している。
消滅し、解散したライバルチームも多いなか、後輩たちが、より強くなる明日を目指して頑張ってくれていることは、なによりの宝物である。
ふたりの新人は期待どおりの活躍をみせてくれた。なによりもチームに馴染み、先輩から可愛がられた。プレイ面ではメンバーを牽引した。
優れた選手が来た数だけ、試合に出られなくなるメンバーが出る。その人間が腐ってしまうと、むしろ損失になる。リーダとしてチームを牽引する者には、使命感という糧がある。しかし、底辺で支える選手たちが、モチベーションを維持し続けることはほんとうに難しいことだと思う。なによりも嬉しく、そして誇れることは、補強が年々続くようなって以降も、ただひとり脱落者が出なかったことだ。創生期のメンバーは、誰よりもチームへの愛着心が強い。みな、ラグビーが好きだった。だから、自然、自分のことよりもチームを優先した。それにしても、稀有なことだろう。
そういうドラマのような実話の最中に、わたし自信の青春があったことは、考えてみれば、身が震えるほど幸運と言える。
当時の新人のかたわれであるIsは、いま故郷の山口で暮らしている。どうしても故郷に戻りたい、という一心で、数年前、会社を辞めて、奥さんとまだ学生の子どもたちを都会に残して、単身で還った。幸い再就職も決まり、元気でやっている、という便りがあった。
昨年の6月、出張にかこつけて、久々に再会した。是非、実家に泊まってほしいという言葉に甘えることにした。家の裏手に田んぼがあり、自分でやった、という早苗が植わっていた。親父さんの植付けは、整然として熟練を感じさせる。彼のものは蛇行していた。それでも、その田んぼを披露する彼の表情には、かつて楕円球を追った青年の面影があった。夜には、ホタルが家を取り囲むかのように舞った。これでも、少なくなったもんだ、とはやくも晩酌でほろ酔いの親父さんが呟いた。
故郷に還りたい、と相談されたとき、わたしは、やめておけ、と諭した。家族はどうするんだ、と説教めいたことも言った。
俺が漬けたあんず酒ですよ、とふるまわれた。香りが口いっぱいにひろがる。
わがままなことは分かっています、でも、どうしても還りたいんですよ、親父やおふくろがまだ元気なうちに・・・と駄々っ子のように話す口ぶりに揺ぎないものを感じたことを思い出した。
あいつ、来年で23回忌ですね。
そういう話題になった。そうだ、もうそれだけの歳月が経つ。
行ってやらなきゃならないんですけどね、札幌は遠いし、そういう金もないし、ぜひ行ってやってください、お願いします。居住まいをただし、Isはペコンと頭を下げた。Ngのグレートデンのような風貌が思いだされた。
Isは、わたしと同じCTBというポジションだった。俊敏性やパスワークを求められる。長州人らしい鷹のように切れ長の目つきをしていた。一方、Ngは、ロックというフォワードの中核となるポジションで、アスリートとしての総合力、特に突破力やジャンプ力が必要となる。長身、筋肉質で、犬のグレートデンを彷彿させた。こわおもてで、一見、近寄り難いが、目がつぶらで可愛さがある、そういうところも似ていた。
ラグビーは、体と体をぶつけ合うスポーツである。練習でも、試合でも、味方の選手同士で息づかいや、汗のほとばしりや、体温を感じあっている。この習癖が日常生活にも続き、選手同士が集まれば、挨拶がわりにプロレス技が披露される。年々、可愛い後輩ができていくようになると、Ngのプロレス技には、ますます磨きがかかり、幸運な被害者が続出する。飲み会の席では、大声でかわされるラグビー談義のなかに、技をかける者とかけられた者のうめき声が混ざる。なんとも喧騒である。さすがに、先輩連中にはそこまで仕掛けてこないが、グレードデンがじゃれてくるように、体ごとぶつかってあいさつにくるので、油断はならない。もっとも、それがなによりの愛情表現なのだ。とめるわけにもいくまい。
あれは、2部リーグでの優勝を決め、しかし残念ながら入替戦をドローで終わり、1部への昇格には至らなかったシーズンだった。わたしにとっては、それが現役公式戦、最後の一戦だった。ノーサイドの笛が鳴り、Ngはしばらくグランドに座り込んで動かなかった。わたしは、ゴールポストの脇にねそべって、宙を眺めた。やけにのどかな冬の空だった。
悔しいが、来期につながるだけのことはした。再起を誓って、オフに入った。Ngは札幌に帰郷した。そして、その晩、吐血して病院にかつぎこまれた。即、入院。それから、一度も退院することなく、半年も経たないで逝った。
声なき旧友との再会は、不思議に静謐だった。
在郷への定住を準備するための秋田訪問の期間を利用し、妻とふたりで、札幌まで足を伸ばして、線香をあげさせいただいた。当時のメンバーは、よくわが家に泊り込みで遊びにきた。Ngもそのひとりで、妻も弟のように可愛がっていた。
ご母堂は、いまも元気でおられる。思い出話しに尽きることがない。
幼少のころのこと。仲が良く、いつも兄の後をついてあるいていた日のこと。やがてふたりともラグビーの世界に行き、ライヴァル争いとなったこと。やはり癌で逝った父親のこと。奈良の高校にラグビー留学させたが、ただひとことも泣きの電話を入れてこなかったこと。高校東西対抗に選抜された喜び。それが大学からのスカウトにつながり、社会人までラグビーを続けるきっかけになったこと。それがなければ、札幌で母子で食堂を経営していたかも知れないこと。・・・・・
いまは娑婆には居ない故人の話しをしていると、その彼が当時のままにそこに座っているかのような錯覚を覚える。わたしたちの話しを、なにも言わず、黙ってわらって聞いている。いま彼は、ご母堂とわたしと妻の心に宿っており、わたしたちのなかに、甦って、さまざまに表情をみせている。
そういうことを、わたしたちの訪問によって、ご母堂にも感じていただいたのならば、嬉しい限りだ。わたしの母と同年代であるから、すこし親孝行をしてあげられたような気分になる。
2時間ほども話しこんだが尽きることがない。あっという間に帰りのフライトの時間が迫ってきてしまった。名残りは尽きないが、またの再会を誓って、おいとますることにした。
この日の札幌は、穏やかな日よりだった。見送りを受けながら、レンタカーに乗り込もうとすると、にわかに大風が吹く。背中をドンと押された気がした。ふりむくと、グレートデンが風になってじゃれついてきた、そう思った。