<2010.1.6>
左手の親指に、幼いころにつけた鑿(ノミ)の傷跡がある。
生来、不器用なたちなのだが、そのくせ『造詣すること』に好奇心がそそられる。絵を描いたり、粘土をこねたり、版画や彫刻を彫ったり、工作物を造ったり、そういうことが好きだった。
小学校の5年か6年のときに、友人をそそのかし、“世紀の橇(ソリ)”を造った。ハンドルやブレーキまで配備した、3人乗りのその世紀のソリは、しかし、初滑りで思い切り大破した。再起不能の滑走分解だ。
不器用なくせに『造詣すること』が好きだったのである。
齢86歳で尚かくしゃくとしている古里の父親は、ながらく水墨画を趣味としているし、弟は孔版画の道に進んだ。そういう血がすこし流れているのかも知れない。
木工を営む叔父もいて、県立の技術専門校の講師などもしたが、独身時代の一時期、木工業を営んでいた。その作業場が、わたしの生家の小屋を利用してあった。カンナやノミ、鋸などなどの木工具は、子どもの目からして魅力溢れる品々(ツール)だった。もちろん、触らせてもらえるものではない。叔父の作業をつかず離れずで、終日眺めるのであった。
あれはうだるような夏の日だった。夏休みの遊びにも飽きて、汗をかいた肌のカンナ屑にまみれながら、作業小屋にいると、やがて叔父が午睡に入った。
すこし鼾をかきだすのが合図となる。床に落ちた木っ端を拾い、ノミや糸ノコを持ち出して、秘密のひとり訓練が始まる。その日は、いったいなにをしようとしたのか、まったく記憶にない。だが、やがて鮮血がはしった。その色と、やっちまった、という心の動揺だけが、ワンショットのシーンとして鮮やかに蘇ってくる。結構、深い傷だったが、それだけに子ども心にも「やばい」と思ったのだろう。叔父を起こさぬよううめき声も出さず、ノミから血をふき取った。道具箱に戻し、自宅に走ってボロ布を取り出して、傷口に当てた。親指の根元をゴムで縛って止血した。あの時代の子どもは、誰に教わるでもなく、こういう対処術を身につけていた。
子どもなりの判断基準では、指の傷より、そのいたずらが親にばれ、折檻を受けることが、よほど危機的であった。だから、素知らぬふりをきめた。ぐるぐる巻きの包帯を親に尋ねられても、ちょっと転んで怪我をした、とでも言ったのではないか。ほんとうならば、数針ぬっても良かった深さだったが、(少なくとも表面上は)素知らぬふりが功を奏し、叱られずに済んだ。その、素知らぬふりが災いとなり、医者にも行かず、傷跡になって残ってしまったが・・・。
いまにして思うのは、あの頃の親子関係の距離感のことである。ある意味、すこぶる健全。
適当だった。適度に、放っておかれた。
左親指の包帯から血を滲ませている子どもを、よってたかって取り巻いて、どうしたこうした、と詰問するようなことはなかった。だから、子どもの浅知恵でも見逃された。その鷹揚さが、たとえ生涯残る小さな傷跡につながったとしても、ヒステリックに心配され、大騒ぎされることよりは、よほど良いことのように思える。
安全行動を怠ると、怪我をする。怪我をすると痛い目にあう。自業自得ということが、自然に備わっていく。
けだし、他所様に迷惑をかけるようなことは、けして許してもらえなかった。ふっとばされるほど、殴られて折檻された。近所にはかみなり爺さんや婆さんが、目を光らせ、悪さを働くガキどもを平気で叱りつけていた。
時代は貧しかった、と言われる。
たしかになにもなかったのかも知れないが、子どもの眼にはなんでもあった。
青洟を垂らし、冬にはしもやけだらけにした男児たちは、冒険心に溢れていた。近所の庭に忍び入っては、スモモやナツメを盗み採りしていた。スリルというスパイスがかかっているためだろう、すこぶる美味かった。
山や川・沼が遊び場だった。昆虫採集や魚採りをし、秘密の基地を造営した。昆虫博士や魚や鳥の博士、模型名人、そういう特技のある者が畏敬される。
雪が積もれば、天下分け目の雪合戦。隣家の秋田犬が参戦するといっぱしの騎兵隊になる。学校のお勉強では分が悪いガキ大将は、ここでは堂々たる隊長だ。秀才君は、後方支援隊で雪だまづくりに専念する。
64年10月10日、東京オリンピック開会式。父親が大奮発してテレビを購入した。裏山で日が暮れるまで遊びほうけて帰ると、国家の一大行事を観ないとはなにごとか、とげんこをくらった。ボクには、山の自然の方が、開会式というセレモニーよりは遥かに魅力的だったのだ。郷里の英雄・遠藤選手の体操競技には、くいいるように見入った。マラソンのアベベや円谷もそうだ。茶の間に家族がみな揃っていた。
時代は豊かになった、と言われる。
ひとつの家庭にテレビや車が何台もあるような国になった。結構なことだと思う。結構なことなのだが、一方で、陰湿ないじめや自殺、悲惨な事件に歯止めがかけられない社会になった。親が子をたたき殺し、子が親を殺す、そういう事件さえ珍しくなくなった。親と子の関係が、いびつに近く、そして遠くなってしまっている。
貧しくて豊かな国が、豊かで貧しくなってしまった、ということだ。
いまにして思うのは、あの頃の親子関係の、そして社会と個人との健全な距離感のことである。
昔に還る必要はないし、そうしようとしてもできない。
ただ、この国の行く末について、この時代を生きたわたしたちに責任があることに間違いはない。時代の流れにのって、田舎を出てきた少年が、半生を経ていま、捨てたはずの田舎に還ろうとしている。
そこに、わたしたち夫婦の生き様の集大成を求めているのかも知れないが、子どもたちが、そして、やがて孫たちが訪ねてきたとき、彼ら彼女らに言葉では伝えられない「なにか」を遺すようなことになれば良いと想う。たいそうなことはできない。どんなに小さなことでも「やってみる」ことが大事なのだと思う。
お前さん、そろそろ自分の頭で考えて行動してみなよ・・・そのように鑿(ノミ)の傷跡が語りかけてくるような気がするのである。