<初稿2007.5.18>
結婚したての頃、多摩川沿いに住んでいた。田園都市線の二子新地駅から、歩いて10分ほどのちいさな木造の賃貸アパートだった。下見に訪れ、間取りうんぬんよりも、土手縁(へり)のたたずまいや裏手にひろがる畑地ののどけさが気に入り、ひとめで決めた。
引越の日、荷物を搬入していると、あけひろげた窓から突然、飛び込んできたものがあった。黒地に白のブチネコである。
前の住人が、こっそり飼っていたらしい。なにかの事情で、そのまま置いていったようだ。まだ、1歳に届かないようなオス猫である。ひたいに三日月の模様があり、当時、人気だった週刊漫画「じゃりん子チエ」に登場する‘小鉄’にうりふたつの風貌であったため、その場で命名された。
会社帰り、河原道を歩いていると、どこからともなくあらわれて、そのまま連れ添って一緒に帰宅する、そんなことがたびたびあった。そうでなければ、玄関のとびらを開けて、名前を二度三度呼ぶそのうちに、待ってましたとばかりに大急ぎで駆け寄ってきた。きみは、まったく犬のようなやつだなあ、とあきれて話しかけるとニャーと返事をする。
気立てが良いというよりは、おとなになりかけの甘えん坊であった。
食欲はすこぶる旺盛。山盛りの晩餐をたいらげ、名残惜しげに、いつまでも皿をなめつくしていた。
春は、猫にとっても恋の季節である。魅力的なメス猫と思いを遂げるには、恋敵をやぶらねばならぬ。だが、若さゆえか、百戦錬磨の相手にやぶれたのは小鉄の方であり、ある晩、足や顔にざくりと傷を負って、悲惨なすがたで帰ってきた。あいにくわたしたちはその翌週に、結婚式を控えている。新婚旅行まで数えると向こう三週間は、この子の面倒を見ることができない。ところが、とくに後肢の怪我は、深手のようで足をつけずにビッコを引いている。このまま放っておくわけにはいかなかった。翌朝、わたしたちは、小鉄をダンボールに詰め込み、川向うの獣医に連れて行った。長期の入院をお願いしたのである。
式を済ませて、旅行から戻り、ひと休みする間もなく電話をすると、もう退院できますよと言われた。橋をわたっていく新婚さんは、実は子連れの再婚者で、‘わが子’を預け先の親戚に引き取りいくような妙な心持ちであった。
医院のケージにおさまり、傷もすっかり癒えて、小鉄は元気な姿に戻っていた。ほっとしたが、安月給の半分近くを、治療・入院費で請求されたのは痛かった。おまえさんのお陰で、しばらくは緊縮生活だからね、と愚痴をこぼすと、すまし顔でニャーと応えた。お宅のネコちゃんは良くたべますね、あげてもあげてもきりがないくらい。そんな獣医のことばを背中に、野良猫の分不相応のホテル住まいは終わったのだった。
しばらく経ったある日のこと、縁側からなにやら物音がする。ガラス戸を開けると、散り散りに逃げ回るものがあった。キジトラのメス猫と5匹のその子供だ。ふと見ると、小鉄がちょこんと座っている。わたしのことを横目で見ながら、キジトラ母子が気になっている様子である。ははーん、そういうことか、嫁さんと子供を紹介しに来たってわけか。なんだ、なかなかやるじゃないか、きみも。誉めると、今度はわたしの足もとに体をすり寄せ、ノドをゴロゴロ鳴らした。
外猫と家猫では、寿命にかくだんの差があるそうだ。病気や事故のリスクの違いがあるのだろう。野良となると、じゅうぶんな餌にかならずありつけるわけでもない。3年前後で一生を終えることがほとんどなようで、厳しいものである。しかし、それでは天寿まで生き長らえる家猫が幸せなのかというと、どうだろうか。野良の方が、何倍も充実して生きているような気もする。そもそも幸不幸という価値観を、かれらが持っているわけではない。ただ生きて、ただ死んでいく。超然としている。こういう野良という生命(いのち)を、どのようにとらまえて扱うかは、結局、人間の側の問題である。
嫁さんのキジトラはきっすいの野良で、決してなつこうとしなかった。その子供たちも、生後数ヶ月の間は好奇心が旺盛で、煮干などを目当てにそばまで来て、なんどか体にも触らせてくれたが、じきにまったく寄りつかなくなった。どこでどうしているのか、ようとして行方も知れず。
小鉄は、その後もあいかわらずの生活を続けていたが、徐々に外での行動が長くなり、ときおり気ままにやってくるくらいになっていった。夜の集会の常連にでもなったのだろう。しがない若夫婦の与える残飯には、物足らないのか、待ちわびていたかのようにガツガツ食事にありつくことも少なくなっていた。愛嬌ものだったので、肉や魚のご馳走にありつける立ち寄りどころが、いくつかできたのかも知れない。少しさみしくもあったが、小鉄が、そういう自立の野良道を究めていくことは、自然な成り行きで、かれのためでもあるのだろうと思われた。
わたしたち夫婦にも子供ができた。妻は会社を辞めて、主婦業に専念することになり、それを機にアパートを引き払って、横浜は弘明寺(ぐみょうじ)の社宅に移り住むこととした。
小鉄は、前の住人同様、置いていく。そもそも社宅住まいでは、連れて行こうとしても無理な相談だった。生まれて育ったこの街に棲みつづけることが、かれにとってはいちばん良いことのように思えた。ただ、それがわたしたちの本心なのか、それともどこかにある良心の呵責に、みずからを納得させるための方便だったのか、わからない。小鉄のことを思い出すと、いまでも自然に微笑みが浮かんでくる。同時にちくりと胸に痛みが走るのである。
あやめ荘−古風な名前のそのアパートにわたしたちが暮らしたのは、つまり、小鉄とのつきあいは、結局、一年余りという短い期間であった。
荷造りを済ませて、レンタルした2tトラックにエンジンをかけても、小鉄は姿をあらわさない。昨晩、久々に部屋にやってきて、ひとしきり遊んでいった。あれは最後のあいさつのつもりだったのかも知れない。玄関脇に置土産の煮干を盛って、運転席に乗り込んだ。春まだ浅く、風は冷たいが、晴れ渡った穏やかな日和だった。
横浜でもしばらくは、果たしてちゃんと食べていけてるのかねえ、などと夫婦の会話にも登っていたが、やがて、わが人間の子がふたりとなり、三人となると、ネコのことを思い出す悠長はない。忙しくなっていく仕事にも追われ、いつしか多摩川沿いの生活は、遠い記憶の引き出しの中へとしまわれていった。
年末は、日頃の反省を込めて、家庭サービスにいそしむ機会であり、大掃除は汚名をそそぐ一大行事である。数日かけて、部屋のすみずみまでピカピカにする。この作業、しかし、天袋に保管してあるアルバムのコーナーにさしかかると、往々にして中断してしまう。ついつい夫婦ふたりで、ときには家族総出で見入ってしまうからである。
三人並んだ幼子の写真を前に、妻の目線は遠くを見ている。とっぷりと思い出の世界に浸ってしまったようだ。こうなると、現実に立ち戻るまで数時間はかかるものと覚悟しなければならない。子どもらも、あのときはこうだった、こんなこともあったとかまびすしい。掃除のじゃまをしてくれるな、と叫んでいたわたしもやがて座り込んでしまう。
一枚のモノクロ写真に目がとまる。カメラが趣味であったわたしが、何かの気まぐれで撮ったものだ。そこには、若かりし頃の妻がおり、その後ろのいすの上に小鉄がちょこねんと座っている。ひたいの三日月がきれいに浮き出ている。
小鉄は、あの頃のわたしたちの生活に、いろいろな話題を提供し、ときには事件を持ち込んだ。確かにわたしたちは、かれをかわいがり、その生活の一部を一時期支えた。だが、いまになって想うと、世話になったのは、むしろわたしたちの方であった。結婚生活とは、別々の環境で育った者がひとつ屋根の下に暮らすことである。ときに、つまらない常識の差などですれちがいが起こり、衝突する。けんかとなる。これは、いかなる大恋愛の末であってもかわりあるまい。この溝を埋めたり、あるものはあるものとして認め合っていく行為は、ふたりでしかできない。他人同士が本当の夫婦になっていくためには、根気も時間も必要なのだ。しかし、暮らしはじめの戸惑いのなか、小鉄の見事なクッション役に随分と助けられたのも事実だった。無邪気なかれは、わたしたちを笑わせ、あきれさせ、ときに泣かせた。
ありがとう、と言いたい。
記憶の小鉄には、不思議と猫という実感が湧かない。姿かたちはたしかにそうなのだが、ときおりおりに、子供のように、弟のように、友人のように、どうも人格を感じてしまう。素知らぬ顔をしながら、わたしたちの心を読みとっていた。かなわぬことであるが、もう一度、小鉄に逢えるのならば、ひとつ、聞いてみたい。おい、一体、きみは何者だったんだ、と。
もっとも答えは分かっている。
きっと、ニャー、だろう。