<初稿2007.12.12>
食品の偽装事件があとを絶たず、わたしたちの生活の根幹を支える「食」の世界にも不安が広がっている。秋田県大館市の食肉加工製造会社による偽装は、比内地鶏のブランドを護り続けてきた関係者にもさぞ大きな衝撃であったろう。
卵を産まなくなった老鶏は肉も硬く、もはや食用に卸せないため、廃鶏となる。それを大量に仕入れ、地鶏のコリコリ感を逆手にとり、燻煙によって風味をごまかした。むろん、ごまかすにごまかしようもなく、ただ固いだけの薫製となったが、鶏は鶏だから、牛や豚を使っているわけでねえからいいべしゃ、とばかり社長が横車を押したらしい。
この事件、茶化す気持ちはまったくないが、しかし、幼稚にして憐れである。事件発覚後、会社の社長は逃げて妻と山中をさ迷い、死に切れずに会見、謝罪した。そういう話しを聞き及ぶに、売れない喜劇の滑稽さも感じる。
県外への土産品が主な需要だったのではなかろうか。さすれば、これを土産に購入した観光客こそいいツラの皮である。おいしいねなどと言いながら食べてしまったのならば、三文喜劇に抱腹絶倒したようなもので、あの笑いはなんだったのかと赤面の憤怒を覚える。
イタリア料理の基本中の基本に「ブロード」がある。和食で言うと出汁にあたる。スープやソースのベースとなるため、とても重要である。わたしは鶏、肉、魚、野菜の4種のブロードを料理ごとに使い分けるが、鶏のブロードの出番が圧倒的に多い。本来は、(牛)肉のブロードが主流になるのだろうが、鶏は食材としての手軽さがいい。
そして、じつは、これには老鶏が一番なのである。
数羽分の老鶏を牛刀でぶつ切りにし、汚れや血合いをとる。熱湯でざぁっと洗い流し、なおも血合いを抜いて丁寧に掃除する。
玉ねぎや人参、セロリの香味野菜を同じ大きさにブツ切りにする。にんにくは皮つきのまま。キャベツの芯やブロッコリーの根茎、大根のヘタ、パセリの茎などの“くず野菜”とともに水にさらす。エグミを抜くためである。
寸胴鍋にたっぷり水を張って沸騰させ、まずは老鶏を入れる。そうしたら、もう二度と沸騰させてはならない。鍋の一・二箇所にふつふつと対流がおきるていどに火力を調整し、こまめにアクを獲る。頃合いを見て、野菜を入れる。そしてまた、アクを獲る。ローリエを数枚、タイムを数茎入れる。
アク獲りは根気良く続けるが、それはまた旨味でもある。神経質な完璧よりも鷹揚なほどよさがよろしい。
こうして2時間。しっとりとした深い味わいと香りに満ちた鶏のブロードができあがる。黄金色に透き通っている。
ざばざば乱暴に濾してはならない。ひとつひとつの旨味を煩わせぬよう穏やかさが求められる。目は多少粗めのものをわたしはつかっている。
団地住まいには適わぬことだが、水は隠れた主役である。いつか湧き水に恵まれた場所で、こういう調理をしてみたいと思っている。
ひとくち、試味してみる。やはりブロードには老鶏がいい。こわばった肉や筋、そして骨に、長い人(鶏)生の妙味が詰まっている。若造はとても及ばない。
脇役のくず野菜も欠かせない。野菜屑は決して捨てない。濡れた新聞紙に包み、冷蔵庫で保管しておく。
鶏や魚のブロードは足が速く、その日のうちに使い切るのが肝心と云われる。しかし、こういうものはある程度以上の分量をつくることが旨みを引き出す秘訣でもある。わたしは、月になんどかまとめて作ることとし、冷凍しておく。こうすると風味も落ちず、時間のないときでも、簡単に極上のスープにありつける。
いわゆる“高級食材”が手にはいったら、よけいなことをしないことである。そのままいただいたり、さあっと塩焼きしたりするのがいちばん美味い。足し算ではなく、引き算。素材本来の良さをシンプルに引き出すことがポイントになる。
しかし、只同然のものや、捨てられてしまうものにも、彼らでなければできない仕事がある。手間をかけて、時間をかけ、奥底に閉じこもってねむっているものをそっと起こしてあげるのだ。そういうものが「滋味」になる。
メインディッシュを飾る主材が「良い子」ならば、添え物の野菜などは「普通の子」に位置づけられるだろう。そして、主材の旨みを引き立てるソースのベースには元「悪い子」がいる。世間からそしりを受けていたあの悪い子たちが、あるいはイラナイと言われた者たちが、手間や時間を惜しみなくかけ、いまや顔つきまで変わって、堂々と胸を張っているのが見えるのである。
大館の会社は、良い子を悪い子にすげかえた。それは改ざんであり、欺きである。悪い子をそのありようのままで活かす道を考えられなかったものかとも思うが、鶏が金に見えてしまっていたのだろう。望むべくもない。