<2009.8.22>
江ノ電には、湘南の海風がよく似合う。
家の軒先をかすめ、やがて海岸線に抜けると、車窓には海原がひろがり、ウィンドサーフィンの原色のセイルが鮮やかに点在する。ときおり伸びやかに警笛を鳴らし、単線の線路をトロットする。その姿は交通手段というより、もはや湘南のシンボルのひとつと言った方がふさわしい。
じつは、わたしはこの江ノ電を4年間、通勤電車としていた。
高校を卒業して就職した配属先が、鎌倉の営業所であった。独身寮が、江ノ電の鵠沼という駅にあった。
休みの日にドアを開けっ放しにして午睡していると、足元でかさこそ音がする。なんだろうと起き上がってみると、親子連れのような蟹が散策している。そんなところだった。
江ノ電は、藤沢と鎌倉を結ぶ。その間の鵠沼駅と和田塚駅の10区間が、わたしの通勤路だった。
営業所勤めにはそもそも夜を徹するような緊迫した仕事もないが、通勤電車が江ノ電であったことは、精神衛生上もすこぶる良かった。なにか厭なことがあっても、この電車に乗るだけで癒される気がした。
秋田の田舎から出てきて最初の年、夏の鵠沼海岸の人出に驚いた。しかし、それ以上に冬の日々の快晴の印象は鮮烈だった。秋田の冬では、お日様を拝めるのは月に指折るほどしかない。それが、湘南では毎日々々抜けるような青空が続く。空を見上げて、ほへーっと感嘆した。わたしの体のどこかに眠っている、数十万年前の氷河の塊が溶けていく、そんな気がした。
片瀬川という川をはさんで、女子寮があった。最寄りはおなじ鵠沼駅であるが、そこから海岸へと向かうと男子寮で、反対方向にぐるりと廻り橋を超えて女子寮だった。
寮祭などを通じて交流がある。その事前の準備などで、幹事を選出して打合せが行われる。
わたしも3年目の夏に納涼祭の幹事役となった。その日の打合せは、女子寮で行われたが、翌週に迫った祭りのこまかい手順合わせ等ですっかり夜も更けてしまった。
4-5人も居ただろうか、男子寮に帰る道すがら、誰かが、鉄橋を渡ろうぜ、と言い出した。片瀬川に架かる江ノ電の鉄橋を渡れば、かなりショートカットになる。
以前にもやったことがある。鉄橋には、白熱電球がポツンとあるだけで、かなり足もとが暗い。それでもゆっくり進めば、さほどのことはない。
うかつなことには、誰も腕時計がなく、最終電車が終わったかどうかさだかでなかった。もっともこの時間の運行は、30分間隔にもなる。よほどのことがなければ、鉢合うものでもあるまい・・・。
ところが、そのよほどのことが、ほどなく起きたのである。へっぴり腰集団が、ちょうど鉄橋の真ん中にさしかかるころ、後方から電車がやってきた。不心得者たちを発見、プワーンと警笛が鳴った。
ときの寮長はリーダーシップのある青年だった。彼の“トビコメ!”の一言で、わたしたは意を決し、ザブンザブンと川に落ちた。
人の口に戸はたてられないと云う。この事件は、翌日には寮中に知れ渡ることになり、寮監にこってりと絞られた。しばらくすると、女子寮に夜這いに行った輩が、帰り道で片瀬川にはまったらしい、という噂にまでなったようだ。
わたしにとっての発見は「いたずらをたくらんだ仲間は結束する」ということだった。結束した幹事軍団よる納涼祭は、ものの見事、盛況裏に終了した。
この宴が縁になったのか、双方の寮長同士が、翌年には結婚することになった。幹事軍団も披露宴に当然のように呼ばれ、ひとしきり片瀬川事件の話題で盛り上がった。
わたしにとっての発見は「悪意のないいたずらは、度を外したものであるほど、いつしか武勇伝になる」ということだった。
この寮には、10名以上の同期仲間がいた。郷里や配属先などの関係から、やがてつきあいの濃淡が出てくる。
Nm君は、会津若松の出身。同じ東北出で、同じ営業所の配属であったこともあり、自然、仲良くなった。おっとりして、いつもニコニコ笑っていた。
彼にとって、新しい独り身生活は面白くもあったが、それ以上に淋しく苦痛であったようだ。檻から出された獣のように、自由気ままを楽しみ、羽根を伸ばしきっていたわたしには、その心持ちを理解することができなかった。
外出や食事に誘っても、あまりのってこなくなり、あいつ、最近すこしふさぎこんでいるよなあ、と仲間内で話しをした矢先のことであった。
秋の休日の昼過ぎのこと、寮に江ノ島警察から電話があった。
江ノ島の民家から不法侵入の通知があり、いま警察でNmの身柄を確保している、ということであった。Nmの口から、わたしを初め何名かの同僚や先輩の名前が出されたらしい。在寮していた先輩のHdさんと一緒にともかく身柄を預かりに行った。
警察所に入ると、泣きべそをかいたあとの顔でNmが座っている。
なんでも、とあるお宅にあがりこんで、縁側にポツンと座っていたらしい。家人が戻って、たまげて「誰か」と聞いたところ、「いやぼくはこの家のもんだよ」と応えたという。
そのまま警察に通報されたのである。
なにかを盗ったとか、乱暴をはたらいたわけではない。そのお宅がNmの実家のたたずまいにでも似ていたのだろうか。里心がついたとしか思えなかった。そのお宅の方もNmとすこし会話をかわしたらしい。不憫に思ったのか、警察にも穏便にはからうよう言ってくれたようだ。
大丈夫か、と声をかけるとニコリと笑った。さあ、もう大丈夫だ、一緒に寮に帰ろうぜ、とうながした。
わたしたち三人は江ノ電で帰った。江ノ島から鵠沼はわずか二駅である。やけに足が重く、遠い道のりに思えた。ときおり、Nmがはしゃいだように話しかけてくる。相槌をうちながらも、なんだか泣けてくるのだった。
ほどなくNmは退社することになった。郷里に戻ることにした。
いつものように営業所に出勤し、隣の課を覗くと、そこにはひとつ主(あるじ)をなくした椅子がある。バカヤロウとちいさく呟いた。
年賀状が一度だけ届いた。あれから会津に還って、元気にやっている、という。家業の会津塗りを手伝っているそうだ。なかなか難しいが、一人前になれるように頑張る、と書いてあった。Nmのニコニコしたお人よしの顔が浮かんできた。それがNmにいちばん良い道であるような気がした。
会社への通勤で江ノ電に揺られ、
恋の予感にうかれながら江ノ電に追いかけられ、
同期の友人を連れ戻しに行ったときも揺られ、
買い物に出るにも、遊びに行くにも江ノ電に揺られた。
入社5年目で、わたしは鎌倉の営業所を離れた。以来、東京の本社や事業部を転々とすることになった。殺人的な満員の通勤電車に詰められ、最終電車勝負の多忙な業務が待っていた。
そして、あっという間に歳月が流れ、定年退職を目先に迎えるまでになった。
偶然にも、住まいは湘南の近傍に戻ってきていた。散歩がてら鎌倉に行き、あるいはモノレールで江ノ島に行き、買い物では藤沢に行く。あの頃と風景はいくぶんかわったけれど、夏の海岸の人だかりも冬の日々の快晴もあいかわらずだ。
江ノ電に乗って揺られていると、この電車がわたしの都市生活の出発にあり、また、締めくくりにもあるのだと気づく。
家の軒先をかすめ、海岸線に抜け、ときおり伸びやかに警笛を鳴らし、単線の線路をトロットする。そのリズムやペースが、都市生活にあってもアクセクしない秘訣をわたしに携えてくれた気がする。
世の中には、変わらないことが貴重であるものがたしかにあるのだ。
※本エッセイのイラストは、湘南出身のイラストレータ・児玉ひろ氏の作品です。湘南の風を感じさせます。
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