<2010.01.28>
舌切り雀のおばあさんは、欲張って大きな葛籠をお土産に背負って帰り、あけた途端、妖怪やら蛇蠍(だかつ)の類に襲いかかられて悶絶してしまう。たいせつな糊をたべた雀を懲らしめただけで、こういう仕打ちを受けるのだから、思えば酷いものである。
誰だって、大きな器を欲しがるものだ。小さな葛籠で大判小判をせしめたお爺さんは、よくよく虚弱体質だったのではないかとうがって見てしまう。
まあ、それはいい。
Never too late.と言葉がある。遅すぎることなんかない、というような意味になる。これからなにか事を始めようとする者を、勇気づける言葉だと思う。
退職後、これまでのパラダイムを転換し、在郷の地であらたな生活を立ち上げていく、という話しをすると、大概の方は、うらやましい、勇気がありますね、とおっしゃる。人間は、誰しも夢を追いかけたいし、それをかなえたいと想う。
このごろ、感じるのは、夢を入れる容器のことである。
大きい葛籠には大きな夢が入る。小さな葛籠には、それなりの夢が入る。この夢の入れ物は、その容量や形状は、なにによって決まるのだろうか。才能なのか、資金力なのか、情熱なのか、若さか、否、経験の力なのか。
Never too late.は含蓄ある言葉だが、若者が背負う葛籠と老人が背負うそれとでは、やはり材質やかたちが違ってくるだろう。それでは、これからわたしたち夫婦が背負っていく葛籠とは、どんなものなのだろうか。
世の中、なにをするのでも先立つものが要る。わずかな蓄財と退職金をつぎ込んでも、得られるものには限界がある。37年勤め上げた退職金を元手にして事業のひとつもまともに興せないのかと思うと忸怩とするが、いまの時代、退職金をもらえることだけでよしとすべきだろう。
わたしどもは、妻は専業主婦であり、わたしのサラリーで3人の子どもを育ててきた。勝負事同様に、れば・たらは禁句だろうが、もし二馬力であれば、資金面でもう少し楽に進めることができるかも知れない、そういう思いがふとよぎる。ほぼ同時に、しかしそうであれば、田舎暮らしに対して夫婦が足並みを揃えることもなかったろうな、という想像もめぐって苦笑いする。
子どもたちが大きくなり、ここにきてようやく貯金ができるようになってきた。あと5年ほども勤め続けて、預貯金を積むことも考えられる。しかしながら、5年後に人生を大転換させるエネルギーがあるかどうか、不明である。恐らくは、もう面倒臭くなるのではなかろうか。
Never too late.と言葉がある。遅すぎることなんかない、というような意味になる。少し意訳すると、なにもかも条件が揃うことなんかないよ、そんな期を待っていたら、結局いつまでもなにもできないよ、だから『思い立ったが吉日』なのだ。遅すぎるなどと考えずに、まずいま始めてみることだよ、ということであって、これが真理に近い訳なのでなかろうか。
夢を入れる容器を、乱暴にあらわすならば、時間×エネルギー×資金力になるような気がする。
若い人には、夢をかなえていくじゅうぶんな時間があるが、後ろ盾がない限り、資金力はない。中高年は、それに比べればいくぶんかの資金はあるが、残された時間がない。新たな一歩を55歳で始めるか、60歳ではじめるか、この5年は存外に大きなものかも知れない。わたしの場合、ネガティブに考えると、時間も資金も中途半端だと言え、ポジティブにはほど良いと思える。結局、時間×資金力という点では、老いも若きも大きな差はないのだろうと思う。
エネルギーはどうか。情熱とか、経験値とか、エネルギーの源泉となるものを考えてみると、これは年齢というよりは個人々々に依存する問題になる気がする。
とどのつまり、夢を入れる容器は、若かろうが初老になろうが、いつだってそこそこの大きさである。だから、Never too late.
容器に入れ込んだ夢を、人間は背負って歩いていなかければならない。ならば、身の丈にあった大きさがいちばん良い。身の丈にあった大きさの器に、その中に入るだけの夢を、あれこれと欲張らずに厳選して入れて、丁寧に、そして一歩一歩進めば良い。
おばあさんは、身の丈知らずの大きな葛籠を担ぎ、欲をたかって、あれこれつまらぬものまで詰めこんでしまい、やがて手に負えずに妖怪と化した。
おじいさんは、身の丈の葛籠に、ほんとうに大切だと思える一個の夢を入れ込んで、いつしかそれが成就して輝き出した。
おとぎ話しもこうやって解釈すると悪くない。