<2009.9.30>
定年後を余生と云うのは、この高齢化社会にあって、なんともMottainaiことです。人生、集大成の場として、テーマを持って臨めば、これまでとは違った色合いの花が咲くかも知れません。
人間としてもっとも根源的な「農を土台とした暮らし」を、在郷のステージで送ることができないものだろうか。そう思いついたのが7−8年前でした。ふとした思いつきから真剣に考えるようになり、昨年春からあちこちを夫婦で観て歩き、ついには土地を交渉するまでに至って、もう半年後には移住が迫ってきました。
野良の真似事くらいはやっておきたいと思い、この4月にアドバイザーの吉武美保子さんにお逢いしたことが、緑栄塾の扉をたたくきっかけとなりました。
移住先は、秋田県山本郡三種町というところです。農「的」な生活であって、農「業」ではありません。荒地を開墾し、畑を耕し、果樹を植え、ヤギや鶏を飼い、花を育てます。その一画に家を建て、数年後、小さなリストランテを開きます。野菜やミルクや卵を加工・調理し、お客を呼ぶのです。四季おりおり、年々歳々、それを繰り返し、そして、少しずつでも向上していく、そういう道を拓いていきたいと思っています。
田舎暮らしへの関心が高まっていますが、さまざまな障壁もあります。最たるものは「捨てることの懼れ」ではないでしょうか。
わたしたちは知らぬ間に沢山のものを抱えてしまっています。家族、ビジネスや交遊の人間関係、社会人として培った経験・ノウハウ、そして、住み慣れた街の生活環境や慣習。パラダイムの大転換には、それら長年馴染んだものの多くを置いていかなければなりません。中高年になって、裸になるのは怖いものですね。自分で動いてみて、よくわかります。
捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
沢山を置いていくわたしたちの内に空洞がポッカリあけば、それは、新たななにかを吸収する容量(キャパシティ)を得たということです。どんなものが沁み込んでくるのでしょうか。
そもそも捨てようとして捨て去られてしまうものは、それだけのもの。家族愛や友情や、価値観・人生感などの本物は、都市に住み続けようと、田舎に行こうと消えてなくなりはしません。
緑栄塾もきっとそのひとつです。わたしにとって、緑栄塾は、田舎暮らしへの離陸を導く、週末の滑走路なのですから・・・。
<荒井沢緑栄塾 楽農とんぼの会会報・さとやま通信09_秋号に掲載>